細川晴元は下克上に翻弄された一生を送った!細川忠興やガラシャとの関係は?

細川晴元は実質的に最後に室町幕府における管領をつとめて、権力を振るった人物です。自らに都合の良い将軍を擁立し幕政を握りますが、最後には家臣に謀反を起こされ没落してしまうという、下克上が横行した戦国時代を象徴した人物といえます。

この記事では細川晴元の生涯を年表付きで分りやすく解説します。細川晴元がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける細川晴元など、様々な視点から解説していきます。

細川晴元の基本情報

細川晴元(ほそかわはるもと)は戦国時代に生きた武将です。

代々室町幕府の管領を務めた細川家に生まれ、室町幕府の中で権力を振るいました。一方で常に一族内での覇権争いや家臣の離反などとの戦いに明け暮れました。

細川晴元の人生(年表付き)

できごと

苦しい幼少時代

細川晴元は永正11年(1514)に細川澄元の子として生まれます。細川氏は室町幕府初期から足利将軍家を補佐する有力守護大名でした。特にその嫡流にあたる細川京兆家は代々、室町幕府で将軍に次ぐ役職である管領職を任じられる家の一つでした。細川晴元はその様な家柄のもとに生まれます。永正17年(1520)に父・細川澄元が死去し、晴元は7歳で家督を継承します。父・澄元は、同族の細川高国との家督をめぐる争いに敗れて阿波国へ退去しており、その地で失意のうちに死去しました。細川晴元も家督継承時は劣勢を覆す事ができずにいました。

父の仇を討ち、畿内を治める

大永6年(1526)、細川高国方で内紛がおこり、それに乗じて柳本賢治、三好政長、三好元長がまだ幼い晴元を擁して挙兵します。そして享禄元年(1528)に細川高国を京都から追い出し父・澄元の雪辱を晴らすことに成功します。そして享禄4年(1531)に細川高国を自刃に追い込み、細川晴元は細川家の惣領となり山城、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護に就任、畿内三国については実質的に支配します。

支配当初は畿内各所で一向一揆や法華一揆が蜂起して混乱を極めましたが、逐次鎮圧していきます。天文4年(1536)に入京し右京大夫に任ぜられるとともに幕府政治を主導します。細川晴元は阿波・摂津の国衆と京都権門との利害を妥協させ、京や畿内にしばしの小康状態をもたらします。

配下の三好氏に下克上をされる

しかし、晴元が主導する政権は長続きしませんでした。天文11年(1543)に細川高国の従兄弟の子であった細川氏綱が、高国の跡目と称して挙兵すると、その勢力は次第に力を増して晴元政権を圧迫します。さらに細川氏の家臣であった三好長慶が晴元に背き、天文18年(1550)に細川氏綱を奉じて入京、晴元は近江に逃れます。三好長慶は氏綱を操り人形にして政務を取り仕切ります。

細川晴元はその後若狭国に逃れ、ついで丹波国から入京を図りますが失敗に終わります。永禄4年(1561)に三好長慶によって摂津普門寺に幽閉され、永禄6年(1563)に失意のうちに病死しました。

細川晴元の人柄・人物像

細川晴元の人柄や人物像についてまとめます。

下克上に次ぐ下克上の中で生きた細川晴元!

室町幕府における管領は、もともと将軍に次ぐ最高の役職で、将軍を補佐して幕政の統括をしていました。応仁の乱以降、将軍の力が弱体化すると細川氏は管領という立場から将軍を操り、幕政の実験を握ることになります。しかし同時に細川氏内部での覇権争いや、家臣による反発などもしばしば発生していました。長年に及んだそれらの争いの中で細川家の領国が分裂してしまったり、細川家を支えていた家臣らが討たれたり追放されたりするなどして、細川政権は政治的・軍事的基盤を失っていくこととなりました。

このような中で頭角を現したのが、三好長慶でした。三好長慶はもともと細川晴元の家臣でしたが堺の経済力に目をつけ莫大な軍費・軍需品の調達を可能にします。それを背景に細川晴元を打ち破り近江へ追放したことで、細川政権を実質的な崩壊に追い込んだのでした。細川晴元は管領職として実権を持っていた実質的な最後の人物でした。

細川家を追い出したのちに畿内近国を掌握した三好政権でしたが、それも長くは続きませんでした。三好氏の家臣であった松永久秀の実力がやがて主君を凌ぐほどとなり、実質的な中心人物となっていくのでした。

将軍←管領←家臣←そのまた家臣と、次々と下克上をしていく様はまさに戦国時代を象徴していくといえるでしょう。

権力回復へ執念を燃やして三好氏と戦い続ける

細川晴元は、三好長慶によって京を追放されて近江に逃れますが、その後も残党を組織したり下向先の若狭国の守護を頼り挙兵をするなど、何度も再起を図り三好軍と交戦します。その結果は実を結ばず、晴元は失意のうちに死去することとなりますが、その執念深さはまさに折り紙つきといえるでしょう。

細川晴元の名言・エピソード

細川晴元の名言・エピソードについて解説します。

日本最古の鉄砲使用例!

三好長慶との戦に敗れ、京から逃げた細川晴元は再起を図り、京郊外の東山・銀閣の裏山辺りに中尾城を建設します。天文19年(1550)7月に三好長慶と細川軍が京都で激突します。『言継卿記』という当時の公家が記した日記によると、この時に三好方の兵一人が細川方の鉄砲に当たり死亡したそうです。これが日本初の鉄砲の使用例の記録となっています。

近世以降の細川氏との関係は?

細川氏といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた細川藤孝、忠興、その妻であるガラシャなどが有名です。この細川家は江戸時代以降に肥後熊本藩の当主となり明治時代まで続きます。この家系は室町時代前期に細川家の本流から分家したものであるため、細川晴元とは直接の血縁関係にはありません。

フィクションにおける細川晴元

フィクションにおける細川晴元を解説します。

信長の野望における細川晴元

シリーズによっても異なりますが、統率59、武勇48、知略48、政治71となっています。曲がりなりにも幕政を掌握していたためか、政治がやや高めの数値となっています。

ドラマにおける細川晴元

最近では2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で登場しました。史実と同じように幕政のトップに君臨しながらも、三好長慶の台頭に脅かされている存在として描かれました。

細川晴元は下克上をして、された一生を送った!

細川晴元は幼いころから権力争いの中で生きてきました。最終的には家臣から下克上をされ管領を追われる結果となりますが、そこに至るまでは細川家内の権力争いに打ち勝ち、畿内近国や幕政の掌握を行うといった功績も残しました。また、当時まだ多くは出回っていなかった鉄砲に目をつけ使用した例からは、合理性や先見性を持った人物であったといえるかもしれません。