細川ガラシャは明智光秀の娘で細川忠興の正室!美人だが気の強い性格だった?

細川ガラシャは明智光秀の娘・細川忠興の正室であり、キリスト教を深く信仰した女性です。その最期の死に様に関するエピソードが有名であり、その名は欧州でも知られています。

この記事では細川ガラシャの生涯を年表付きで分かりやすく解説します。細川ガラシャがどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける細川ガラシャなど、様々な視点から解説してきます。

細川ガラシャの基本情報

細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ)は、越前国出身で戦国時代から安土桃山時代を生きた女性です。

小倉藩初代当主となった細川忠興の正室となり、細川忠隆、細川興秋らを産みました。

細川ガラシャの人生

できごと

明智光秀の娘として誕生する

細川ガラシャ(明智 玉)は、1563年、父・明智光秀の三女として越前国で誕生しました。明智光秀は美濃国で斎藤道三に仕えていましたが、1556年の長良川の戦いで息子の斎藤龍興に破れて敗死すると、朝倉義景を頼って越前国に逃れていました。

越前国では、明智家は浪人同様の生活で困窮しており、細川ガラシャはそのような状況下で幼少期を過ごしました。

しかし、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛して以降は、明智光秀は徐々に頭角を表して出世を果たし、1573年には坂本城主となり、この頃には明智家の家格や生活水準を格段に向上させることが出来ました。

1578年、織田信長の発案により元服したばかりの細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁ぐこととなります。

明智光秀も細川藤孝も織田信長にとっては外様の大名であり、共に室町幕府に仕えた経歴を持つ新参の家臣でした。この両家を結びつかせて織田家への忠誠を高めさせようとした織田信長の思惑により、同い年であった2人は政略結婚をすることとなったのでした。

細川ガラシャは美女であったと言われており、細川忠興との夫婦仲は非常に円満なものとなりました。勝竜寺城において1579年には長女(於長)、そして翌1580年には長男・細川忠隆をもうけています。

細川忠興は1579年に父・細川藤孝、義父・明智光秀と共に丹後国守護・一色義道との戦いに参陣して武功を挙げ、その功績により細川藤孝に丹後国が与えられたため、細川ガラシャもこれに従って宮津城へと移りました。

丹後国平定戦の責任者であった明智光秀も織田信長から「天下の面目をほどこし候」と大いに賞賛され、この頃に細川ガラシャは心身ともに穏やかな生活を送っていました。

本能寺の変と幽閉生活

しかし、1582年6月、明智光秀が本能寺の変を起こすと、細川ガラシャの安定した生活は幕を閉じることとなります。

明智光秀は盟友であり深い関係にあった細川藤孝を味方に誘いますが、織田信長の喪に服すことを表明して剃髪し、援軍要請を拒否しました。この時細川藤孝は田辺城へと隠居し、細川家家督は細川忠興に譲られました。

家督を継いだ細川忠興も父に従って明智軍には加わらず、さらに細川ガラシャを丹後国・味土野女城へと幽閉しました。

関係の深かった細川父子や筒井順慶らの協力を得られなかった明智光秀は山崎の戦いで豊臣秀吉に破れて敗死し、細川ガラシャは「謀反人の娘」という烙印を押されることとなりました。

細川忠興はいち早く反明智の姿勢を示したために戦後も明智光秀との内通を疑われることもなく、間もなく羽柴秀吉の臣下に入り、明智軍に味方した一色満信を攻め滅ぼすなど武功を挙げました。

一方、細川ガラシャは山深い味土野において、子供達に字を教えたり、疫病が流行した際には厄除けの札を作るなどして、里に馴染みながら暮らしていました。この生活を支えたのが、侍女であった清原マリアでした。

清原マリアの父・清原枝賢は、公卿を引退した後キリスト教に改宗したと言われており、清原マリアもこの頃はまだ受洗はしていなかったものの(1587年に受洗)、父の影響からキリスト教の教えに通じており、その影響は細川ガラシャにももたらされたと思われます。

キリスト教受洗

1583年の賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉軍に加わり武功を挙げ、その信頼を得るようになった細川忠興は、1584年、豊臣秀吉の取り計らいを受けて細川ガラシャの幽閉を解き、細川家の大坂屋敷へと彼女を移します。

細川ガラシャはここでも監視下に置かれますが、以前と変わらず夫婦仲は円満であったようで、同年に細川興秋が、1586年に細川忠利が誕生しています。

細川ガラシャはこの時義父・細川藤孝に従って禅宗を信仰していましたが、この地で細川忠興がキリシタン大名・高山右近から聞いたキリスト教の話をすると、その教えに心を惹かれるようになります。

1587年、細川忠興が九州征伐に従軍するために大坂を離れると、細川ガラシャは清原マリアらの侍女と共に密かに教会に向かいます。細川ガラシャは洗礼を望みましたが、この時彼女は身元を隠しており、また隠していてもその身なりから相当の高貴な女性であることが見て取れたために、教会は洗礼を見合わせました。

細川家では侍女達の帰りが遅いことから監視下にあった細川ガラシャが外出したことが発覚し、急いで駕籠を遣わして教会から彼女を連れ戻しました。この時、教会の者が後をつけ、彼女が何者であるかを把握しました。

これ以降監視が厳しくなり、外出することが難しくなったため、細川ガラシャは侍女を通じて教会とやりとりし、書物を読むなどして、洗礼を受けないままその信仰を深めていきました。

しかし、同年6月豊臣秀吉によりバテレン追放令が発令されます。これを受けてイエズス会宣教師たちは長崎の平戸に向かうことになると、大坂に滞在していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいにより、自宅で清原マリアから洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を授かりました。

当初、細川忠興にはこの改宗を伏せていましたが、1595年にこれを告白して屋敷内に小聖堂を造ると、細川忠興はこれに激怒し、棄教するよう迫りました。しかし、採算の説得にも関わらず細川ガラシャが信仰を捨てなかったため、ついに諦めて黙認するようになりました。

石田三成への抵抗と最期

その間、細川忠興は1590年に小田原征伐、1592年の文禄の役にも従軍して活躍しますが、1598年に豊臣秀吉が死去すると、石田三成と対抗して徳川家康と通じるようになりました。

石田三成との対立は深く、1599年には黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こしています。

1600年、徳川家康に従って上杉征伐に向かうことになると、大坂屋敷を離れる際に「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の慣習に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と命じました。

徳川勢が上杉軍に矛先を集中させているこの隙に、石田三成は大坂に残る徳川勢の武将の奥方達を人質にしようと働きかけます。黒田孝高の正室・光姫や黒田長政の正室・栄姫、そして細川ガラシャの元に使者が送られ、人質になるよう脅迫を受けますが、細川ガラシャはこれを拒否しました。

使者を拒絶した翌日、石田三成は実力行使に出て、まず細川家の大坂屋敷を取り囲みました。光姫や栄姫も、厳しい監視下に置かれました。

細川ガラシャは侍女や婦人を集めて逃した後、家老の小笠原秀清に長刀で自らの胸を突かせました。キリスト教では自殺が禁じられているため、自分の手ではなく他人に介錯してもらう形をとったのでした。

小笠原秀清はその後屋敷に火をかけ、細川ガラシャに殉じて自害しました。

この壮絶な死に衝撃を受けた石田三成は妻を人質にとる作戦を中止し、これにより光姫や栄姫は屋敷から脱出することが出来ました。天正少年使節団の師としても知られるオルガンティノ神父は、その死を憐れみ細川屋敷の焼け跡から細川ガラシャの遺骨を拾い、堺のキリシタン墓地に埋葬しました。

細川ガラシャの人柄・人物像

細川ガラシャの人柄や人物像について説明します。

宣教師による評価

細川ガラシャが初めて大坂の教会に訪れた際、ここで日本人のコスメ修道士に色々と質問しており、彼は後に「これほど明晰かつ果断な判断ができる日本の女性とは話したことがなかった」と述べています。

また、彼女と交流をもった宣教師達は、細川ガラシャは気位が高く激しい性格の持ち主だったが、キリスト教の教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかな性格になったと評しています。

男勝りな性格と夫とのエピソード

宣教師達に受洗前は激しい性格だったと評されたように、細川ガラシャは頑固で男勝りな一面も持ち合わせていました。

ある時、非常に短気であったと言われる夫・細川忠興が細川ガラシャの前で家臣を手討ちにし、戯れに刀についた血を彼女の小袖で拭いました。それでも細川ガラシャは全く動じず、そのまま数日間着替えなかったので、結局は細川忠興が謝罪してやっと着替えてもらうのでした。

自分でも「いったん事がある時は甲冑をつけ馬に乗り敵に向かっても、私は男にさまで劣るまい」と語ったと言われています。

結婚当初から細川忠興とは仲睦まじく、短気で嫉妬深かった細川忠興は、ある日庭から妻の美しさを垣間見て魅了された庭師の首を跳ねるというエピソードまで残しています。

本能寺の変に際して、細川忠興は細川ガラシャを幽閉していますが、これは妻を守るためであり、味土野も明智家とゆかりのある土地でした。細川家か公式に細川ガラシャを匿った地を明かしたのは、本能寺の変から200年後の1788年であり、当時細川忠興が何とか「謀反人の娘」である彼女と、これを保護する味土野衆を守ろうとしたことが伺えます。

しかし、細川ガラシャがキリスト教に改宗した際は激怒し、夫婦仲も一時険悪なものとなります。

九州征伐から戻った細川忠興は、「5人の側室を持つ」と宣言したり、改宗を迫るために細川ガラシャの侍女の鼻を削ぐなど彼女に強くあたるようになり、苦悩した細川ガラシャは宣教師に「離縁したい」と告白しますが、キリスト教では離婚が認められないと説得され、この辛い時期を乗り越えています。

このような仲違いはあったものの、その後も細川忠興は妻を愛しており、細川ガラシャに宛てた数多くの手紙が残っています。朝鮮出兵中には「豊臣秀吉の誘惑に乗らないように」と書いた手紙を出しており、美貌の妻が豊臣秀吉に見染められないか気を揉んでいます。

細川ガラシャの名言・エピソード

細川ガラシャの名言やエピソードについて解説します。

戯曲『強き女』

細川ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中であった宣教師達により本国に報告されていましたが、その時の資料を元に、死後『強き女 またの名を、丹後王国の女王グラツィア』という戯曲が制作されました。1698年に初演され、オーストリア・ハプスブルク家の姫君たちから大いに賞賛を受けました。

その内容は、夫の悪逆非道な行いに耐えながら信仰を貫き、最期は命を落として夫を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きとなっています。

また、イタリア出身の宣教師・作曲家のヴィンチェンツォ・チマッティにより、オペラ『細川ガラシャ』も創作されています。

細川ガラシャ亡き後の細川忠興

愛妻を無くした細川忠興は、その死にひどく悲しみ、1601年にオルガンティノ神父に依頼して教会葬を催し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へと改葬しています。

細川ガラシャが死去の前に屋敷から逃した婦人の中には、嫡男・細川忠隆の正室で前田利家の娘・千世がいました。千世は姉で宇喜多秀家正室・豪姫の元に身を寄せていましたが、細川ガラシャを失った細川忠興は、細川ガラシャを見捨てる形になった千世を許さず、細川忠隆に離縁を命じました。

しかし、細川忠隆は千世をかばって離縁を拒んだため、勘当の上廃嫡するという厳しい処置を講じました。1626年に勘当を解きますが、その期間は25年という長期間となりました。

また、介錯人となった小笠原秀清と共に大坂屋敷留守役を務めていた稲富祐直も、包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡し、細川ガラシャに殉死しなかったために細川忠興の怒りを買い、「捕らえて火あぶりにしてやる」と宣言されました。

稲富流砲術の腕を知識が絶えるのを惜しんだ徳川家康の嘆願により彼を助命しますが、細川家への帰参は許されませんでした。

細川ガラシャの残した句

細川ガラシャの読んだ句はいくつか残っており、味土野の幽閉生活中には以下の句を読んだとされています。

「身を隠す 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく」(かっこうの雛が鳴く声に、宮津城に残した我が子を重ねて心配する歌)

「逢うをみて 重ぬる袖の移り香の 残らぬにこそ 夢と知りぬる」(夫とやっと会えたと思っていたが、衣にその移り香がないので、それは夢だったと気付かされたという歌)

辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(=散るべき時を知っているからこそ花は美しい。そして人もまたそうような人が美しいのだ)であるとされ、この歌からは壮絶な最期を遂げた細川ガラシャの潔さが伺えます。

フィクションにおける細川ガラシャ

フィクションにおける細川ガラシャを解説します。

ドラマにおける細川ガラシャ

壮絶な人生をおくった細川ガラシャは、数多くの歴史ドラマで登場を果たしています。

2000年の『葵 徳川三代』(演:鈴木京香)、2006年の『功名が辻』(演:長谷川京子)、2011年の『江〜姫たちの戦国〜』(演:ミムラ)、2016年の『真田丸』(演:橋本マナミ)など、多くの大河ドラマで登場していますが、いずれもその最期の壮絶な死の様子が描かれました。

細川ガラシャは逞しく誇り高く生きた強い女性だった

結婚当初は、嫁ぎ先の細川家、実家の明智家共に織田信長の元で活躍して安定した生活を送った細川ガラシャでしたが、本能寺の変で一転して「謀反人の娘」となると、以降は壮絶な人生をおくることを余儀なくされました。

その中でキリスト教と出会い、バテレン追放令が出された時代の波にも、棄教を迫る夫からの圧力にも屈せず、生涯深い信仰を貫き通しました。そこには、細川ガラシャ持ち前の逞しさと意思の強さが垣間見えます。

その強さは壮絶な死を迎えた最期の時にも発揮されており、その死に様は細川家や彼女を包囲した石田三成だけでなく、多くの人々に強い衝撃を与えました。

謀反人の娘となり幽閉生活・監視生活に置かれるという苦難の人生を送った細川ガラシャでしたが、信仰に生き夫から深く愛された彼女の人生は、後世の語り草となり、日本における代表的なキリシタンの一人としてその名を残しています。

彼女の系譜は娘で稲葉一通の正室となった多羅を通して続いていき、明治天皇・大正天皇・昭和天皇、そして現在の皇室にまで繋がっています。