堀秀政は何でもこなせる万能武将!センゴクでの描き方や名人久太郎の逸話とは?

堀秀政は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将です。小姓として織田信長に仕え、その後は武将として戦場で活躍し、豊臣秀吉からは、一門衆並みの待遇を受けています。

早くに亡くなったため、もし長生きしていたらその後の歴史に大きな影響を与えていたかもしれません。この記事では堀秀政の生涯や人物像、フィクションでの描かれ方を紹介していきます。

堀秀政の基本情報

堀秀政(ほりひでまさ)は、美濃国出身の戦国時代から安土桃山時代に生きた武将です。13歳で織田信長の小姓・側近として取り立てられ、本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉に仕えました。

堀秀政の人生(年表付き)

できごと

織田信長の小姓から、武将へ

堀秀政は、1553年に斎藤道三の家臣であった堀秀重の長男として美濃国に生まれました。才能を買われ1565年に13歳の若さで、織田信長の小姓・側近に抜擢されました。(顔が美形であった為とも言われています)

16歳で足利義昭の仮住まいであった本圀寺の普請奉行を務め、側近としての地位を確立しました。その後は、戦場で武将として活躍し、1575年の越前一向一揆討伐戦を皮切りに、1577年の紀伊雑賀討伐戦では、織田信長の本陣を離れ、部隊を率いて参戦しています。

1579年の有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱でも手柄を挙げ、この年に長浜2万5,000石を与えられています。1582年の甲州征伐では、織田信長に従い甲斐信濃に出陣しますが、織田信忠が武田氏を滅ぼした後だったため、戦闘には参加していません。

本能寺の変後は、豊臣秀吉の配下に

堀秀政は、接待役を外された明智光秀に変わり、丹羽長秀と共に徳川家康の接待役を務めています。その後、備中で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉の元に向かっています。

1582年6月2日に、本能寺の変で織田信長が死去しますが、備中にいた堀秀政はいち早く、豊臣秀吉に味方し、以後は豊臣秀吉の配下になります。山崎の戦いでは、先陣を務め、その後に行われた清州会議では丹羽長秀の旧領である近江佐和山9万石を与えられています。

豊臣秀吉の天下統一に貢献

その後は豊臣秀吉の天下統一に貢献し、1583年の北ノ庄城攻めでは、豊臣秀吉に軍功を褒められ、戦後は従五位下・左衛門督に叙任しています。1584年の小牧・長久手の戦いで味方の軍は大敗を喫していますが、徳川家康方の大須賀康高や榊原康政を敗走させることに成功しています。

1585年に豊臣秀吉が関白に就任すると、従四位下・侍従兼左衛門督に叙任され、同年の紀州征伐、四国平定戦で軍功を上げ、越前北ノ庄18万石を与えられています。なお、堀秀政が各地を転戦している間、佐和山城には父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城し、統治に当たっています。

1587年の九州征伐では先鋒を任され、1588年には豊臣姓を与えられています。1590年の小田原征伐にも参戦し、山中城を攻め落とす軍功を挙げますが、病気を患い、5月27日に陣中で亡くなっています。(享年38歳)

堀秀政の人柄・人物像

堀秀政の人柄・人物像について紹介したいと思います。

織田信長、豊臣秀吉からも高い評価

堀秀政は、若くして織田信長の小姓に抜擢されています。16歳で普請奉行を任されていることから、実務的な能力が評価されていました。

その後も織田家の直轄領の管理や、朱印状の発行を認められるなど、役人としてのエリート街道を順調に歩んでいきました。これは「(堀秀政に)実務的なことを学ばせれば役に立つ」と考えた織田信長の思惑があったとも言われています。

20代を向かえると、武将として活躍し、調整能力の高さから織田家の宿老の柴田勝家や丹羽長秀にも頼りにされています。織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕えますが、戦場で数多くの手柄を立てています。

豊臣秀吉が堀秀政に、自身の「豊臣姓」を与えていることから、ほぼ一門衆と同等の待遇を受けています。小田原征伐後に豊臣秀吉は、堀秀政に東国の統治を任せようと考えていたとも言われており、堀秀政の死を大いに嘆いたとも言われています。

その後、蒲生氏郷が会津42万石の大名になりますが、もし生きていたら、この地位についていたのは堀秀政の可能性が高く、百万石クラスの大名になっていたかもしれません。

統治者、武将としても活躍

堀秀政は、「名人」と呼ばれていました。これは将棋や囲碁の名人ではなく、「統治の名人」という意味です。具体的には次の章でご紹介します。堀秀政は猛将でなく、知将タイプだったようで、九州征伐の際、捕虜で捕らえた島津軍の兵士を解放する時に「戦いは豊臣軍が島津軍を圧倒している」というニュアンスの情報を持ち帰らせたそうです。

その後、島津義久はあっさりと降伏しましたが、これは堀秀政が兵士に持ち帰らせた情報が影響していたとも言えるでしょう。

堀秀政の名言・エピソード

堀秀政の名言やエピソードを紹介します。

名人久太郎

堀秀政がまだ統治者として活動し始めたころ、町中に堀秀政の統治を批判する札がいくつも立てられました。家臣は、「こんな無礼な真似をしたやつを見つけ出して処罰しましょう」と進言しました。

しかし、堀秀政は札に書かれていた批判の内容を丁寧に読み返し、「誰が私にこの諫言をしたのだろう。この札は我が家の宝であるから、大事に保管しておこう」と述べています。その後、家臣の知行の割り振り方や、町人や百姓に至るまでの統治方法を見直しています。

例え、誰の諫言か分からないものでも、適正だと思ったら取り入れて見直すことのできた堀秀政を人々は、敬意をこめて「名人」と呼んだそうです。

現場の汗を忘れてはならない

堀秀政のエピソードで次のようなものがあります。ある日、書類仕事をするものと現場で荷を持って仕事をするものとが、「どちらの方が大事な仕事か」ということで言い争っていました。

これを聞いた堀秀政は、自身で荷を担いで山を越えて、「現場で荷を持つ者の汗は尊い。自分も力はある方だがヘトヘトになった。書類仕事をしている者は現場の汗を忘れてはならない。だからと言ってどちらの仕事が軽い、思うということではない。私にとっては、どちらも大切な仕事をしてもらっている」と、話したそうです。

これには言い争っていた2人が恥ずかしくなって、顔を見合わせたと言われています。

フィクションにおける堀秀政

フィクションにおける堀秀政を紹介します。

信長の野望における堀秀政

堀秀政のステータスですが、作品によって異なりますが、統率:84、武勇:77、知略:79、政治:77といわゆる万能タイプです。1568年以降に登場し、内政、軍事どちらでも使いやすい能力値になっています。

漫画における堀秀政

「センゴク」という漫画がありますが、これは仙石秀久という人物を主人公として描かれています。この中では堀秀政は、仙石秀久の同世代のライバルとして登場します。何でもこなせる万能タイプの武将として描かれています。

堀秀政は何でもこなせる万能タイプの武将

堀秀政は、統治者・武将としても優秀なタイプでした。それゆえに、織田信長、豊臣秀吉に高く評価されていました。

堀家は息子の堀秀治が継ぎますが、江戸時代にお家騒動で改易になっています。意外に知られていませんが、これから注目される武将になるかもしれません。