本田忠政は名物三作の一つ桑名江を家宝として扱った!逸話や人物像を紹介

戦国乱世では知勇兼備の将や剛勇無双の将が数々の戦で名を挙げて勝利し、敗北していった時代でしたが長きに渡る戦国時代も農民から這い上がった豊臣秀吉の手によって平和の道がみえ始めていました。1590年に最後まで抵抗していた北条氏を降伏させ、日本全土を豊臣秀吉が治める形となり戦が徐々に終結を向かえていくことになります。

1570年以降の平和が訪れる直前に生まれたものたちは、以前のように戦いに明け暮れていた時代ではなく大名たち同士による連合軍として戦をすることが多く武功を挙げる機会が格段に少なくなっていました。そうした中でも行われた戦で、懸命に主君のためそして味方のために戦い武功を挙げた武将もいます。

今回は、戦国乱世が終結に向かう直前に誕生し古今独歩の将と称された本多忠勝の三男として誕生した本田忠政について解説していきます。

本多忠政の基礎情報

本多忠政の情報について紹介していきます。

猛将の三男として誕生

戦国時代に武勇を轟かせていた武将の一人だった本多忠勝と阿知和右衛門の娘との間に誕生した本多忠政。幼少期には弟だった本多忠朝とともに父から剣術を学んでいきます。長女には小松姫がおり真田家に嫁いだことで真田家と関わりを持つことになりました。

幼いころについては不明ではありますが、7歳違いの弟の本多忠朝と一緒に父に負けない武将になるべく精進していたことでしょう。

本多忠政の生涯

本多忠政の生まれてから亡くなるまでの期間を年表でみていきましょう。

できごと

本多忠政の初陣

本多忠勝に鍛えられ剣の腕を上げていた本多忠政は、主君の徳川家康と共に小田原平定に参陣していきます。豊臣秀吉によって再三の降伏を促していましたが、相模国を支配していた北条氏は豊臣秀吉には屈服せずに抵抗を続けている状況でした。

北条氏を除く全国の諸大名に、小田原へ参陣するように書状を飛ばしていきます。小田原城を始めてとする北条氏の領土化にあった韮山城や松井田城を包囲していく中で本多忠勝と共に武蔵国の岩槻城攻略をいい渡され浅野長政を中心に攻撃を始めていきました。

岩槻城主だった伊達房実を欠いた状態で北条軍は防戦していきましたが、豊臣軍が20000兵に対して岩槻城は2000兵と兵力差もあり僅か4日間で攻略していきます。岩槻城攻略では、本多忠勝と本多忠政が中心に岩槻城を攻撃していたようで本多親子の活躍によって北条軍を降伏させ開城させました。

岩槻城での働きぶりが本多忠勝からも浅野長政からも認められた初陣だったことでしょう。

戦無き世へ近づく

北条氏を降伏させた豊臣秀吉の前に、国内で敵はいなくなっていき領土拡大を目指し朝鮮出兵を発令し大名たちを明へ派遣していきました。明への出兵は主に豊臣家の直参家臣が中心となり編制されてしまったため徳川家康は自軍の将を派遣せずに済んでいます。

この時に、本田忠政が何をしていたかはっきりとしていませんが剣術の腕を磨き平和に近づいていたことで政治的なことを学んでいた可能性もあるでしょう。また1598年に従五位下に叙されていることから、政務活動を実施した功績が認められ与えられたと考えられます。

官位を認められた同年に豊臣秀吉が亡くなり、天下は次の権力者へと移り変わろうとしていました。その次なる権力者が主君だった徳川家康で、豊臣秀吉亡きあとを任されていた立場でしたが身勝手行動により一部の将と対立していき天下分け目の決戦となる関ヶ原で勝敗を決していくことになります。

本多忠政は本多忠勝とは別部隊として、徳川秀忠の軍隊に加わっていきました。真田氏の守る上田城で戦うことになっていきますが、それほど大きな戦に発展せずに兵に稲を刈り取るなどの指示を与えるだけに留まっています。その後は関ヶ原で徳川方が勝利し本多忠勝によって立藩された桑名藩を引き続いで政務をこなしていくことになります。

本多忠政の人物像

本多忠政についての人物や人柄をみていきましょう。

武将としての能力

初陣で武功を上げていることから、武将としての能力は高いと思われ大阪の陣では首級を二百以上も挙げています。主な参加した戦は小田原征伐と関ヶ原そして大坂の陣のみとなっており、戦経験が少ない中でこれだけの武功を上げられたことから常日頃から鍛錬を怠らない将だったと見受けられます。

偉大な父の嫡男だったことから周りから冷やかしや大きな期待を寄せられたことでしょうが、父を超えるために厳しい鍛錬を積み重ね剣だけでなく学問もしっかりと身に付けていた人物だったことでしょう。

兄弟の関係

7歳違いの弟本多忠朝とは、父から剣術などの指南を供に受けていたと思われ参加した戦は本多忠政よりも少なく関ヶ原の戦いで父と参陣していました。際立って仲が良かったとはいわれておりませんが、本多忠勝が亡くなり遺言のとおり遺領15000石を本多忠朝に分配する予定だったものの本多忠政の所領が大きくなるので受け取らないと一時は断ったとされています。

その後は15000石を両者で分けていったようで、互いを思いやる心が強い兄弟だったことでしょう。

本多忠政の逸話やエピソード

本多忠政に関する逸話を紹介していきます。

本多の一計

本多忠政が桑名藩の二代目藩主となっていた時に、江戸幕府から京都所司代に向けて御用金を幕府の奉行衆によって運ばれていましたが桑名藩で一夜を過ごすことになっていきました。奉行衆が宿屋で夜を明かそうとしていることを聞いた本多忠政は不足の事態が起きては幕府に顔が立たないといい、桑名城の蔵で保管することを勧めていきます。

これに同意した奉行衆は安心して城内で夜を明かし、桑名城の蔵に御用金を取りにいくと御用金を借り受けするから代わりの金子を用意するから城内で留まってくれと伝えれます。しかし約束した期日に渡さない訳にはいかず、奉行衆は京都所司代まで上り顛末を説明していきました。

そして征夷大将軍の徳川秀忠の下へ急いで戻った奉行衆は、本多忠政の行いを説明すると本多の一計に謀られたなと笑って代わりの金子を用意し奉行衆に再度持っていかせたようです。本多家が江戸幕府との関わりが深いことが分かります。

大坂の陣での活躍

徳川家康によって天下を盤石なものにするために豊臣秀吉の遺児だった豊臣秀頼を討伐していくことになります。本多忠政は豊臣家を討つ大坂の陣に参陣し立花宗茂らと共に天神橋に布陣し伊東氏や毛利勝永隊と戦っていきます。金銭によって集められた豊臣軍は、烏合の衆となっており統率されていませんでした。

豊臣軍は大軍に押し寄せられていたこともあり、大坂城の堀を水を入れて浮城にし守りを固める予定でしたが本多忠政がいち早く気づき阻止することに成功しています。豊臣方と徳川方の和平条件によって大坂城の堀の埋め立てを任され民家などを取り壊し強行して埋め立てを行っていきました。

防御が薄くなってしまった豊臣方でしたが、以前として兵士を雇い入れていたため徳川家康が武をもって制圧することになります。本多忠政は道明寺にて豊臣軍の薄田兼相や毛利勝永と戦になり最終的には毛利隊に敗走していきますが、首級を292も挙げています。

少ない戦場でみごと活躍し江戸幕府とも良好関係だった本多忠政

戦が各地で起きている1570年代に生まれ、元服するころにはほぼ豊臣秀吉の天下に差し迫っていた状況だったこともあり参陣できるいくさは少なくなっていました。しかし戦場でしっかりと功績を残していることをみると剛勇無双の父本田忠勝から参加してきた戦を聞き学んでいった一面もあったかもしれません。

本多一族は長らく徳川家と寄り添った関係であり、参謀だった本多正純や本多忠勝は時には知恵を出し時には徳川家康と正面きっていい争うなど徳川家になくてはならない存在となっていました。逸話にもあったとおりで徳川一族からどこか本多一族をひいきしていた一面もあったことでしょう。