本多忠勝は徳川四天王の一人で天下無双と讃えられた勇将!愛用の槍や兜も紹介

本多忠勝は徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる武将で、徳川家康の功績を語る上では欠かすことのできない忠臣としてその名が知られています。

この記事では本多忠勝の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。本多忠勝がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける本多忠勝など、様々な視点から解説していきます。

本多忠勝の基本情報

本多忠勝(ほんだただかつ)は三河国出身で、戦国時代から江戸時代前期を生きた武将です。

譜代大名として徳川家康に仕え、上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主となりました。

本多忠勝の人生

できごと

徳川家康の独立

本多忠勝は、1548年、松平家(後の徳川家)の譜代家臣であった本多忠高の嫡男として、三河国で誕生します。

父の本多忠高は、徳川家康の父・松平広忠が暗殺された後、三河国衆が織田方に寝返ることを恐れた今川義元が、織田氏の三河の拠点であった安祥城を攻めた1549年の安城合戦にて戦死しました。

幼い本多忠勝は叔父・本多忠真の元で養育されることとなりますが、彼は槍の名手であり、本多忠勝もその影響を強く受けて育ちました。

父や叔父に引き続き、幼い頃から松平家・徳川家康に仕えるようになり、1560年、13歳の時に大高城の兵糧入れにて初陣を飾ります。

これは桶狭間の戦いの前哨戦であり、織田氏の砦に囲まれていた大高城へと兵糧を運び込むための戦いでありました。

この兵糧入れを成功させた徳川家康でしたが、続く桶狭間の戦いで今川義元が討死して敗北します。

しかし、この敗戦によってかつて父・松平広忠が治めていた西三河地域から今川氏の勢力が一掃されたため、徳川家康はこれを契機に今川氏からの独立を果たし、旧領の回復を目指し始めます。

1562年に織田信長と講和して清洲同盟を結ぶと、依然今川方に付いていた鵜殿長照の守る上ノ郷城等を攻めて落城させました。

1560年に初陣を飾った本多忠勝もこれらの戦に参陣しており、1563年の三河国一向一揆征伐戦では大いに武功を挙げました。

なお、この戦いでは本多正信・本多正重等多くの本多一族が一向一揆衆に加わっていました。

三河国・安城の譜代達は元々浄土真宗門徒であり、この時に本多正信だけでなく、蜂屋貞次など多くの家臣が、独立を果たしたばかりで勢力が不安定だった徳川家康の元を去って一向一揆衆に加わっています。

まだ若年であった本多忠勝は、この時浄土真宗から浄土宗に改宗して徳川家康に従い続け、「家康三代危機」の一つに数えられるこの三河一向一揆戦を制しました。

これらの功績を評価された本多忠勝は、19歳にして旗本先手役(徳川家康直属の実働部隊)に抜擢されて、与力54騎を与えられる出世を果たしました。

1570年、織田信長と浅野長政・朝倉景健が争った姉川の戦いにも徳川家康に従って参陣し、徳川軍に迫る朝倉軍1万に対して、単騎駆けを敢行します。

この本多忠勝の単騎駆けを救おうと、徳川軍の戦意が沸騰し、朝倉の大軍を打ち崩すことに成功しました。本多忠勝はこの時朝倉氏の豪傑として知られていた真柄十郎左衛門との一騎打ちも制しており、これを契機にその武勇を知らしめることとなりました。

武田氏との戦い

1572年から織田信長包囲網を構築していた武田信玄が西上作戦を開始すると、徳川家康も武田軍との戦いを繰り返すこととなります。

武田信玄が徳川領の遠江に侵攻して要所・二俣城を陥落させるべく兵を進めると、偵察隊として先行していた本多忠勝は、一言坂にて武田軍先鋒隊と衝突します。(一言坂の戦い)

この戦いは武田軍の圧勝に終わりますが、本多忠勝は殿を務め、武田軍の猛攻を受けるものの見事に撤退戦を完了させました。

その後、武田氏との戦いは二俣城の戦い、そして三方ヶ原の戦いと続きます。

二俣城の戦いで徳川家康が敗北したことにより、多くの国衆が武田信玄に味方するようになり、次なる標的が徳川家康の居城・浜松城と定められ、三方ヶ原の戦いとなります。

三方ヶ原の戦いでは、最強と呼ばれた武田の騎馬隊の前に徳川軍は大敗を喫しますが、本多忠勝はここでも武田四天王の山県昌景軍を撃退する、夜襲を仕掛けて大混乱に陥らせるなどの武功を立てています。

野田城の戦いの直後、武田信玄が急死し、その跡を付いだ武田勝頼と1575年に長篠の戦いが勃発しますが、この戦いでついに織田・徳川連合軍が勝利します。

この戦いの後、徳川軍は反攻を開始し1581年に高天神城の戦いが勃発すると、本多忠勝は鳥居元忠らと共に城内に突入して掃討戦を行い、高天神城を陥落させました。

この戦いにより武田勝頼の威信は墜落し、1582年に武田家は滅亡することとなります。

伊賀越えの危機と小牧長久手の戦い

1582年、本能寺の変が発生すると、わずかな供の者と堺にいた徳川家康は、知恩院にて自刃すると主張します。

この時本多忠勝も徳川家康とともに堺に居り、取り乱す徳川家康を必死に説得し、三河国への帰還を決定させます。

落ち武者狩りの危険もあり、伊賀の厳しい山道を超える経路を辿るもので、後に「伊賀越え」と呼ばれる徳川家康三代危機の一つです。

この時徳川家康に随行していたのは、本多忠勝を含めわずか34名でありましたが、彼らの必死の警護の末に無事に三河への帰還を果たしたのでした。

1583年、織田信長の後継を争い、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉でしたが、この戦いで擁立した織田信雄との関係が悪化すると、織田信雄は徳川家康に接近し、1584年に小牧長久手の戦いとなります。

本多忠勝はこの戦いにおいて留守役を命じられ小牧山城に止まっていましたが、ここで徳川軍の苦戦を聞きつけると、わずか500の騎馬を率いて参陣します。

その後に戦いは徳川軍の優勢へと傾きますが、織田信雄が独断で豊臣秀吉と和睦を締結したため、大義名分を失った徳川家康は軍を引き上げました。

1590年、徳川家康が関東に移封されると、本多忠勝も上総国大多喜に10万石を与えられます。これは、家臣団中第2位の石高でした。

武勇で知られた本多忠勝は、この地で北の真田氏や上杉氏、安房の里見氏に対する備えを任され、まず万喜城、そして大多喜城へと入城し、大多喜藩の起源となりました。

関ヶ原の戦いと桑名での晩年

1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、本多忠勝は徳川家康本陣に従軍します。

ただし、本多軍は嫡男の本多忠政が指揮をとっており、53歳になっていた本多忠勝は豊臣恩顧の武将達の監視役を務めていたと言われます。

吉川広家などの諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作に従事して裏方として活躍する一方、本戦でも500騎の兵を率い、少ない兵数ながら90に及ぶ首級を挙げました。

この功績によって戦後伊勢国桑名10万石への移封を受け、さらに5万石を増領すると持ちかけられますが、本多忠勝はこれを固辞しています。

桑名藩主となった本多忠勝は、桑名城を修築し、町屋川・大山田川の流れを変えて外堀に利用して、多くの町衆を移住させた「慶長の町割り」と呼ばれる城下町の整備を行いました。

多度大社の再建にも尽力しており、寺社の復興にも力を注いでいます。

1609年に嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居すると、翌1610年に桑名で死去しました。63歳でした。

本多忠勝の人柄・人物像

本多忠勝の人柄や人物像について説明します。

多くの武将から賞賛される武勇者

生涯、57回にも及ぶ戦いに参陣した本多忠勝は、戦いの中でかすり傷ひとつ負わなかった戦上手・武勇の者としてその名を轟かせており、その勇猛さは数々の武将から賞賛を受けています。

勿論、主君・徳川家康は本多忠勝を高く評価しており、高天神城の戦いの後には、「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉(=本多忠勝)が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳も残っています。

織田信長は「花も実も兼ね備えた武将である」と賞賛し、豊臣秀吉に至っては、本多忠勝を家臣軍に引き抜こうとしたほどで、相州貞宗の腰刀など、様々な貴重品を贈呈しています。

豊臣秀吉は本多忠勝について「日本第一、古今独歩の勇士」「東に本多忠勝という天下無双の大将がいる」と、並々ならぬ言葉で彼を賞賛しています。

登屋ヶ根城の戦い

14歳の時に参陣した登屋ヶ根城の戦い(今川氏方の糟谷氏らと徳川家康が争った戦い)において、本多忠勝は初首を取ることに成功しています。

この時、本多忠勝にとって育ての親であり槍の師範でもあった叔父・本多忠真は、本多忠勝に手柄を挙げさせようと、敵兵を倒して「この首を取れ」と命じます。

これに対して本多忠勝は、「我、あに人の力を借りて功を立てむや(=人の力を借りて功を立てるのは本意ではない)」と応え、自ら敵陣に駆け込み見事に敵首をとったのでした。

この武勇と名誉心に感心した本多忠真は、「のち、必ず物の用に立つべきものなり」と感涙し、徳川家康に本多忠勝を推薦したと言われています 。(『寛政重修諸家譜』より)

本多忠勝の名言・エピソード

本多忠勝の名言やエピソードについて解説します。

一言坂の戦い・小牧長久手の戦いでのエピソード

武田軍に大敗した一言坂の戦いでは、本多忠勝は殿を務めていますが、火を放って武田軍の進行を遅らせ、その後武田軍の激しい攻撃の中で、大滝流れの陣を整え、一言坂の下で待ち受ける武田家武将の小杉左近の軍に突撃します。

この奮闘により撤退戦を完了させ、戦後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八(=本多忠勝)」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場したほどで、彼の奮闘ぶりがいかに凄まじかったかを物語っています。

後に豊臣秀吉は、前述したように本多忠勝を賞賛してその臣従を望んだほどですが、そのきっかけになったとも言えるのが、小牧長久手の戦いでした。

当初、留守役を務めていた本多忠勝は、わずか500人の兵力で本陣し参戦しますが、約500m先の龍泉寺川を挟んで豊臣軍約2万の前に立ちふさがります。

そして、単騎で乗り込み悠々と馬の口を洗わせ、その豪胆さを示します。

この様子をみた豊臣秀吉は、本多忠勝ただ一人を前にしてその豪胆さ・勇猛さに触れて進撃をためらい、これによって豊臣軍の戦機が去ったのでした。

「蜻蛉切」と「鹿角脇立兜」

本多忠勝は、室町時代に作られたとされる天下三大名槍の「蜻蛉切」という槍を愛用しており、『本多平八郎忠勝と傳』には、

「忠勝は槍術に秀で、一度槍を振れば、乱舞する蜻蛉を切り落とす、との定評があったので、所持する槍を”蜻蛉切り”と名付けられた」という記載があります。

この蜻蛉斬りは柄の長さが約6mもある大槍でしたが、この蜻蛉切の他にも、本多忠勝の装備品は兜や刀、鎧など一風変わった著名な物が伝わっています。

彼が愛用した兜は「鹿角脇立兜」と呼ばれるもので、その名の通り、黒い和紙を何枚も貼り合わせて黒漆で塗り固めることにより、鹿の角をあしらった脇立のついている兜です。

これは、ある時道に迷った本多忠勝の前に、一匹の鹿が現れて彼に道を教えたことで難を逃れたことがあり、この鹿を八幡神の使いと信じ、伊賀八幡宮の神主に制作を依頼したと言われています。

この兜は愛用の鎧「黒糸威胴丸具足」と共にニューヨークのメトロポリタン美術館でも展示されており、そこで大いに絶賛を受けています。

遺書と辞世の句

「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」

という遺言を残しており(『名将言行録』より)、戦で手柄を立てるよりも忠義心をもって最後まで仕えることこそ侍として大切だと説いています。

三河一向一揆で徳川家康を裏切った(後に帰参して)同族の本多正信のことを嫌っており、「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」と言い捨てており、この遺書の言葉通り、彼がいかに揺るぎない忠義心を重んじていたかがわかります。

辞世の句は「死にともな 嗚呼死にともな死にともな 深きご恩の君を思えば」

であり、(死にともな=死にたくない)君とは正に徳川家康を指します。この辞世の句からも、本多忠勝の忠義心の高さが伺えます。

フィクションにおける本多忠勝

フィクションにおける本多忠勝について解説します。

信長の野望における本多忠勝

シリーズによっても異なりますが、信長の野望における本多忠勝のステータスは、統率91、武勇97、知略74、政治60となっています。

生涯の連戦の中でかすり傷ひとつ負わなかったという逸話に違わず、統率・武勇の面で非常に高い数値を誇っています。

ドラマにおける本多忠勝

徳川家康を主人公とする大河ドラマでは、その忠臣として本多忠勝も登場しています。

1983年『徳川家康』(演:高岡健二)を始めとして、2000年『葵 徳川三代』(演:宍戸錠)、2014年『軍師官兵衛』(演:塩野谷正幸)など多くの作品があります。

2016年の『真田丸』(演:藤岡弘、)では、武勇に優れているが実直で頑固な性格な武将として登場し、敵味方を問わず戦死者の冥福を祈る優しい性格を持ち合わせた人物として描かれました。

徳川四天王本多忠勝は武勇に優れた天下無双の将であり、優れた治世者でもあった

幼い頃から徳川家康に仕え、今川家での人質時代から、「三河一向一揆・三方ヶ原の戦い・伊賀越え」の徳川家康三大危機を共にした本多忠勝は、天下統一を果たす上で欠かすことの出来ない大きな役割を果たしました。

数々の戦いで武功をあげた本多忠勝の勇猛さは、主君だけでなく敵将からも多大なる尊敬を受けたほどでした。彼の愛用した槍や兜、鎧といった武芸品からも、その名将ぶりが伝わってきます。

そして、本多忠勝は決して武勇一辺倒の武将ではなく、優れた領土支配を行なった知将でもありました。特に、晩年の彼が行なった桑名城下町の整備は、現在の桑名市の基礎を築き、現在でも名君として慕われています。

正に、徳川四天王・徳川三傑に数えられるに相応しい、大変優れた天下無双の将と評価することが出来るでしょう。