平手政秀は織田信長を育てた教養人!外交面で活躍!自害の理由とは?

平手政秀は、織田信秀・信長に仕え、織田信長のもり役として知られています。うつけ者と言われていた織田信長の教育に力を尽くしますが、謎の自害を遂げています。今回は平手政秀の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについて紹介したいと思います。

平手政秀の基本情報

平手政秀の人生

できごと

織田家の外交・交渉担当として活躍

平手政秀の前半生は、資料が残っていないため、詳しいことは分かっていませんが。父親は平手経秀という人物のようです。志賀城(名古屋市北区)の城主であったことから、それなりの家柄だったと推測されます。織田信秀に仕え始めた時期も定かではありませんが、主に織田家の外交面や交渉役として活躍しました。

織田信長のもり役

平手政秀と言えば、織田信長のもり役というイメージが強く、ドラマなどでも織田信長から「爺(じい)と呼ばれていますよね。1534年に織田信長が誕生すると、平手政秀は織田信秀から、「もり役」に任命され、次席家老を務めました。

もり役とは、いわば養育係として常にそば近くに仕える人物のことを言い、織田信秀が自身の跡継ぎである嫡男の養育を任せるほどなので、信頼は厚かったと思われます。しかし、織田信長は「尾張の大うつけ(馬鹿者)」と称されるほどで、周囲の目も次第に冷たいものになってきていました。現代で言うと不良少年のイメージです。

それに比べて、弟:織田信勝(信行)は賢く聡明であったことから、信長を廃嫡して信勝を織田家の跡継ぎに据えようとする家臣まで現れ始めました。しかし、平手政秀はそれでも織田信長をかばい、織田家の跡継ぎとして、ふさわしい人物に育てるために懸命に働きました。

当時の織田信秀は今川義元(駿河)や斎藤道三(美濃)の外敵と、織田家内部の争いで非常に苦しい状態でした。1548年、織田信秀は斎藤道三との間で和睦が成立し、嫡男の織田信長と斎藤道三の娘:帰蝶(濃姫)との婚約が決定。この時、斎藤家との交渉を担当したのが平手政秀でした。

織田信長の振る舞いが結婚によって改まると思っていた平手政秀ですが、織田信長の行動が変わることはありませんでした。

謎の自決

1551年に織田信秀が亡くなると、織田信長が織田家を相続しますが、家臣の多くはうつけものと呼ばれていた織田信長の力量を疑い、弟:織田信勝を当主に推すものもいました。そんな中、織田信秀の葬儀が行われますが、織田信長は父親の位牌に焼香を投げつけるという前代未聞の行動に出てしまいました。

これにより、家臣の多くは織田信長に失望し、織田信勝を推すようになったと言われています。織田家が不穏な空気の中、1553年に平手政秀は自刃し、その生涯を終えます(享年:62歳)。

平手政秀の人柄・人物像

平手政秀の人柄や人物像について、紹介してきたいと思います。

かなりの教養人だった

平手政秀は、織田家の外交・交渉担当として活動していましたが、それは大名家だけにとどまりませんでした。茶道や和歌に通じた文化人でもあり、1533年に尾張を訪れた公卿の山城言継からは賞賛を受けるほどでした。1543年には織田信秀の代理として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4000貫を献上するなど朝廷との交渉も行っています。

「信長公記」にも、「平手政秀は風雅で心遣いができる人」との記載があり、普段は温厚な知識人だったのかもしれません。

自害の原因は?

平手政秀の自害の理由については、①息子と織田信長が不和になったこと、②織田信長を諌めるため、の2つの説があります。詳しく紹介してきます。

①息子と織田信長が不仲になった

きっかけは平手政秀の息子:五郎右衛門の名馬でした。名馬マニアと言われていた織田信長が、五郎右衛門の名馬を所望しますが、五郎右衛門は「私は武士ですので、馬がなければ働けません。お許しください」とはっきりと断ってしまいました。

家老とはいえ、平手家はそんなに裕福ではありません。織田家もまだ尾張一国も統一できていない状態なので、当然と言えば当然ですよね。織田信長が欲しがるほどですから、その馬がよほどの名馬だったのかもしれません。

これがきっかけで五郎右衛門と織田信長が不仲になり、板挟みに苦しんだ平手政秀は自害という道を選んでしまったと言うのがこの説です。

②織田信長を諌めるため

これが一般的に言われている「諌死説」です。自分が何を言っても一切聞く耳を持たない織田信長を諌めるために、自害するしかなくなったという訳です。確かに織田信長の行動は常軌を逸しており、並みの人間では理解不能です。織田信長はうつけ者のふりをして、周囲の大名を油断させていたことが分かるのは、もっと後の時期です。

平手政秀は織田信長がうつけ者のふりをしていたなどとは、夢にも思わなかったでしょう。

平手政秀の名言・エピソード

平手政秀の名言やエピソードについて、紹介したいと思います。

織田信長が政秀寺を建立

織田信長は平手政秀の死をいたく悲しみ、その菩提を弔うため「政秀寺(せいしゅうじ)」という寺を建立し、住職は沢彦宗恩(織田信長の師の1人)でした。沢彦宗恩は後に、織田信長が美濃攻略後に「稲葉山」を「岐阜」に改名するあたりで登場します。岐阜の名付け親と言ってもよいかもしれません。

織田信長は鷹狩に行くたびに、平手政秀の供え物として「政秀、これを食え」と言い、肉を投げていたという話も伝わっています。後年、他の家臣が「殿がこんなに偉大になったのに。平手(政秀)殿は早まったことをしましたね」と言うと織田信長は激怒し、「俺がここまでこれたのは政秀のおかげた!政秀を馬鹿にするな」というエピソードもありますが、これは後の創作の可能性があります。

しかし普通、大名が家臣のために寺を建立するというのは、あまりないことなので、それほどの存在だったと見るべきでしょう。

息子について

平手政秀には3人の息子がいたと言われています。長男:長政、次男:久秀、三男:汎秀(孫という説も)で、長男の長政については記録が残っておらず、次男の久秀が先に登場した五郎右衛門と言われており、父親の死後も織田家に仕え、1574年の伊勢長島一向一揆討伐戦で戦死したとされています。三男の汎秀も同じく織田家に仕え、1573年の三方ヶ原の戦いで戦死しています。

3人の息子に跡継ぎがいなかったため、平手家は断絶したと伝えられています。

フィクションにおける平手政秀

フィクションにおける平手政秀について、紹介したいと思います。

信長の野望における平手政秀

平手政秀の能力値ですが、統率:55、武勇:47、知略:81、政治:81と内政力が高めです。登場が1507年からで1553年に死亡しているため、前半のシナリオでプレイしないとお目にかかれない武将です。

ドラマにおける平手政秀

平手政秀が登場するドラマは少ないです。大河ドラマだと「国盗り物語(1973年)」、「麒麟がくる(2020年)」に登場しています。「麒麟がくる」では平手政秀の切腹はすぐに終わってしまいました。まだナレ死(ナレーションで亡くなったことが紹介される)ではなかったのが、救いだったかもしれません。

平手政秀は織田信長を育てた教養人

平手政秀は、織田信長にとっては一番の理解者でありましたが、織田信長がうつけ者のふりをしているということが分からなかったのは、不運だったように思えます。織田信長も「じい(平手政秀)なら、分かるだろう」と思っていたのかもしれません。

織田信長の前半生の殊勲賞は、平手政秀と見ても過言ではないでしょう。