丿貫は伝説の茶人で逸話とは?「へうげもの」にも登場!千利休のライバルだった?

戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人で、丿貫という人物がいました。丿貫については史料が少ない為、謎に包まれている部分が多いです。今回は丿貫の人柄や人物像について年表付きで解説し、千利休との関係やエピソードについても紹介したいと思います。

丿貫の基本情報

丿貫の人生

できごと

丿貫の出身は?

丿貫は戦国時代後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人と言われています。名前の表記ですが、「丿恒」・「丿観」・「別貫」などがあります。なお「丿(ヘツ、へチ)」は、カタカナの「ノ」ではなく、漢字です。

丿貫は、京都上京の商家坂本屋の出身、もしくは美濃の出とも言われています。医師の曲直瀬道三の娘婿という説もあります。武野紹鴎の元で茶を始め、京都山科に庵を構えて数々の奇行を持って知られたとも伝わっています。

豊臣秀吉にも気に入られた

1587年に豊臣秀吉の主催で行われた北野大茶湯の野点(屋外での茶会)において、直径約2.7mの大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引きました。豊臣秀吉も大いに喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を与えています。

丿貫の茶道とは?

丿貫については、「侘びすきにて、しいて茶法にもかかはらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす」・「異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」などと書かれており、当時流行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追求していたと言われています。

また、丿貫は手取釜1つで雑炊を作り、茶も沸かしていたとも伝わっているほどの貧乏であったという情報もあります。当時の茶人や傾奇者などとも交流があり、千利休とは特に親交がありました。その一方で茶道を千利休と争い、世間に注目されがちだった千利休の茶道を嘆いていたとも伝えられています。晩年は薩摩(鹿児島県)に住んでいたようで、ここで没したと言われています。

丿貫の人柄・人物像

丿貫の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

曲直瀬道三とは?

丿貫の岳父と言われている曲直瀬道三(まなせどうさん)はどのような人物だったのでしょうか?曲直瀬道三は「日本医学中興の祖」の1人で、生誕の翌日に両親が同時に死去すると言う不幸に見舞われますが、伯母に育てられたと言われています。

その後、京都の相国寺で文学を学び、このころに姓を曲直瀬としたと言われています。1528年に関東に下り、足利学校で学んでいます。このころに医師を志したと言われています。当時の名医に弟子入りし、再び京都に戻ります。

1546年には将軍:足利義輝を診察し、細川晴元・三好長慶などの有力武将も診察しています。松永久秀には性技指南書を伝授し、名声を上げ、京都に医学校を創建しています。以後は、正親町天皇の診察を許されたり、毛利元就・織田信長などの武将も診察しており、医学の第一人者として活動しています。

曲直瀬道三は1594年に88歳で亡くなっています。丿貫との関わりについては記録が残っていませんが、曲直瀬道三には何人かの娘がおり、その1人と結婚していたとも考えられます。2人がどういう接点があったのかは分かっていませんが、曲直瀬道三も文化人としての一面を持っていたため、そこに接点があったのかもしれません。

千利休に忠告していた?

丿貫は「世俗を離れ自由に茶を楽しむ」ことをモットーにしていたようで、高額な茶器や茶釜には関心はなかったと言われています。交流があり茶道のライバルであった千利休が、当時の権力者:豊臣秀吉に近づきすぎたことを批判しています。

その言葉と言うのが、「利休は幼なきの心は、いと厚き人なりしに、今は志薄くなりて、むかしと人物かはれり」・「利休は人の盛なることまでを知て、惜いかな、その衰ふるところを知らざる者なり」と、江戸時代の文献にも残っています。

しかし、これが千利休の切腹前に言ったことなのか、切腹後に言ったことなのかが分かっていない為、警告していいたのか、千利休の死を弔うものだったのかは分かっていません。丿貫も北野大茶会で豊臣秀吉に気に入られますが、誰に仕えることもなく、生涯を終えています。

千利休や他の茶人に比べて史料が残っていませんが、他の茶人に比べて自由だったのは間違いなさそうです。

丿貫の名言・エピソード

丿貫の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

千利休とのエピソードとは?

ある日、千利休を自身の庵に招いた丿貫。千利休は、家の前に落とし穴があることに気づきながらあえて落ちてみせると、丿貫は風呂を用意しており、清々しい気分で茶を楽しませたと伝わっています。これについては、丿貫が落とし穴をほり、千利休を落として恥をかかせたとも言われていますが、真相については分かっていません。

千利休も自身の流儀とは違う茶道の丿貫には、一目置いていたとも言われています。

茶道の歴史について

茶を飲む習慣や製法は、平安時代に遣唐使によって中国からもたらされたと言われています。当時の日本人は茶を嗜好品ではなく、薬として捉えていたこともあり、この当時、飲茶習慣はさほど広まりませんでした。

鎌倉時代に禅宗を伝えた栄西が、中国から茶を持ち込みました。これが武士階級にも広まり、室町時代には庶民にも広まっていきました。その後、安土桃山時代に千利休によって「わび茶」が広まり、江戸時代には町人階級が茶の湯に参入し、成功したものが莫大な富を築いたとも言われています。

しかし、明治維新後は茶の湯は上流階級の楽しみとされるようになり、現代の茶道は「日本固有の文化の保存」として海外に認知されています。

フィクションにおける丿貫

フィクションにおける丿貫について、紹介したいと思います。

信長の野望における丿貫

信長の野望には、丿貫は登場していません。武将ではありませんので当然と言えば当然です。ただ、「太閤立志伝」というゲームでは武将ではない人物でもプレイが可能ですが、やはり登場していませんでした。

丿貫については、やはり記録が残っていないので、能力値がつけられないのかもしれません。

ドラマにおける丿貫

残念ながら、丿貫が登場するドラマはありませんでした。ただ、「へうげもの」という漫画には丿貫が登場しています。この漫画は茶人:古田織部が主人公ですが、丿貫は個性的なキャラクターで権力者も恐れない自由奔放な人物として描かれています。

丿貫は謎の多い、伝説の茶人

丿貫については分かっていないことが多いです。記録のある史料などからは権力者には近づかず、自分の流儀の茶道を追い続けたストイックな人物という見方もできます。これから、史料が見つかり人物像が解明されていくとことを期待しています。