早川殿は今川氏真と仲の良い夫婦だった!ゲームやドラマでの能力も紹介!

早川殿は、今川氏真の妻として生きた女性です。今川氏は、桶狭間の戦いで義元が討ち取られてからその息子の氏真が家督を継ぎますが、氏真には戦国大名として家を統率する能力に乏しかったために、没落していきます。戦国大名としての地位を失った今川氏真は北条氏や徳川氏など様々な場所に身を寄せながら流浪しますが、早川殿は生涯氏真に寄り添って支え続けました。

この記事では早川殿の生涯を年表付きで分りやすく解説します。早川殿がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける早川殿など、様々な視点から解説していきます。

早川殿の基本情報

今川殿(いまがわどの)は戦国時代~安土桃山時代~江戸時代に生きた女性です。相模国の戦国大名・北条氏康の娘として生まれ、駿河国の今川氏真のもとに嫁ぎました。

早川殿の人生(年表付き)

できごと

政略結婚で今川氏に嫁ぐ

早川殿の出生に関しては明らかになっていません。残されている系図などから北条氏康の娘で、北條氏政ときょうだいであったことは確かであるようですが、生母や出世年については諸説あります。

早川殿の実家である後北条氏と今川氏はかつては同盟関係にありました(駿相同盟)。しかし天文6年(1537)に今川義元が、北条氏と敵対関係にあった武田氏と駿甲同盟を結んだことにより、今川氏と北条氏は敵対関係になりました。駿河国の富士川以東(現在の静岡県の東部地域)をめぐり両者は10年近く争っていましたが、同時に北条氏は北関東の上杉氏と対立し、今川氏は尾張の織田氏と対立する状態が続いていました。このような状況から、武田氏・北条氏・今川氏による甲相駿三国同盟が結ばれます。この同盟は、各々の当主の娘がお互いの嫡子に嫁ぐ、婚姻同盟として成立しました。

天文23年(1554)、早川殿は今川氏の嫡子であった今川氏真のもとへ嫁ぐこととなりました。

今川家の没落

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川氏真が今川家の領地を継承することとなります。しかし、桶狭間の戦いで今川家を支えていた重臣などの多くが討死し、生き残った者についても今川家から離反して徳川方に着く者も出て、今川家の勢力は衰退していきます。武田氏は織田氏と外交を持つようになるなど、三国同盟も破綻していきます。

永禄11年(1568)、武田信玄は駿河侵攻を行い、早川殿は今川氏真とともに遠江掛川城に逃れます。武田氏はこの時、早川殿に対する保護を怠り、早川殿は徒歩で逃げる羽目になります。早川殿の実家である北条氏はこのことに激怒、武田氏との同盟を破棄して今川氏の支援をします。翌永禄12年(1569)、今川・北条氏と徳川氏との間に和睦が成立して掛川城が開城、今川氏真と早川殿は北条氏に引き取られます。この時に今川家臣は北条氏の軍事指揮下に置かれ、今川氏領であった駿河国の支配も北条氏に任されることとなり、戦国大名としての今川氏はここに滅亡します。

今川氏真と早川殿は小田原近郊の早川郷に移り住みます。

夫とともに流浪した後半生

しばらく早川殿は夫・今川氏真とともに、実家である北条氏のもとで過ごしますが、天正元年(1573)頃には小田原を出て、浜松の徳川家康を頼ることとなります。天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が関東へ転封となると、京都へ移り住みます。

江戸時代に入り慶長17年(1612)には京都を離れ、江戸品川に移ります。この時に次男・品川高久は徳川秀忠に出仕します。慶長18年(1613)に氏真に先立って江戸で死去しました。

早川殿の人柄・人物像

早川殿の人柄や人物像についてまとめます。

乱世の中でも離れなかった夫婦の絆

早川殿と今川氏真の結婚は、当時の戦国大名の間でしばしば行われていた政略結婚でした。三国同盟締結のために、武田信玄・今川義元・北条氏康がそれぞれの娘を、互いの嫡子に嫁がせました。早川殿と今川氏真の他は、今川義元の娘・嶺松院が武田信玄の子・武田義信に、武田信玄の娘・黄梅院が北条氏康の子・北条氏政に嫁ぎます。三国同盟が崩壊すると共に他の2組は離縁し、娘はそれぞれ実家の家に戻っています。離縁せずに夫婦関係を保ったのは、早川殿夫婦だけでした。

夫婦の間柄から見る、早川殿の人柄

早川殿について記した史料はあまり多くなく、人柄などについても明確なことはわかっていません。戦国大名としての今川氏が滅び、夫・氏真とともに一時期は実家である北条氏の拠点・小田原に身を寄せます。早川殿はそこで実家に戻ることはせず、のちに夫とともに小田原を離れて、浜松や京都など、住まいを点々とします。今川氏真は戦国大名としての能力はなかったものの、和歌・蹴鞠・連歌などの文化人としての素養はかなりあったようで、穏やかな人柄であったようです。そんな夫と離れることなく、添い遂げたことから、優しくも芯がある人柄が感じられます。

早川殿の名言・エピソード

早川殿の名言・エピソードについて解説します。

豪勢な輿入れ行列

今川氏真との婚姻のために早川殿が相模国から駿河国へ向かう際の行列が見事であったという記録が残っています。これによると、北条氏から供奉した家臣たちは様々な煌めく道具を持っており、沿道には前代未聞なほどに見物人で溢れたとしています。関東で大きな勢力を誇っていた北条氏の威信を示すためのものだったのではないでしょうか。

本名は不明?

早川殿は、本名についても明らかになっていません。「早川殿」という名は、夫・今川氏真とともに北条氏に保護されて小田原にいたとき、住んでいた地が早川郷(現在の神奈川県小田原市早川)であったことに由来しています。また、「蔵春院」という名は死後に贈られた法名であり、生前に名乗っていたことはありませんでした。

フィクションにおける早川殿

フィクションにおける早川殿を解説します。

ゲームにおける早川殿

信長の野望では、統率60、武勇48、知略63、政治69、義理76という数値となっています。全体的に高い数値ではありませんが、常に夫に寄り添い支え続けたためか、義理の数値が高めに設定されています。

戦国無双にも登場しますが、ややあどけないようなビジュアルが人気のようです。夫・氏真は蹴鞠の名人で有名ですが、戦国無双での早川殿はラクロスのラケットを所持しています。

ドラマにおける早川殿

北条氏や今川氏を扱うドラマはあまり多くないため、ドラマで登場することも多くないようです。武田氏など、周辺の国を扱った作品では時折登場します。「早川殿」という名で登場することは少なく、作品によってオリジナルの名前が設定されることが多いようです。最近では2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、「春」という名で登場しました。今川一門と良好な人間関係を築きながら、苦境に立たされた夫・氏真を支える役でした。

早川殿と夫・今川氏真は、ともに乱世を生き抜いた理想的な夫婦だった

今川氏真は、今川氏を滅亡させた人物として認識されており、一般的にその評価は高くはありません。しかし、一方では和歌や蹴鞠などの技術には優れており、さらには今川家を旗本という身分とはいえ、江戸時代以降まで存続させたことからも再評価されています。

社会的地位には恵まれませんでしたが、戦や権力争いとは距離を置いて穏やかに暮らした早川殿夫婦の人生は、ある意味で理想的な生き方であったといえるのかもしれません。