畠山義就は歴史上最強の武将!? 畠山政長との生涯にわたるの対立も!

室町時代後期の戦国武将だった畠山義就は、守護大名畠山持国の側室の子として生まれ、持国の死後、家督を引き継ぐことなりました。しかし元々は叔父・畠山持富が家督を引き継ぐことになっていたという背景から持富の子・畠山政政長らと対立し、家督争いが勃発します。

この家督争いを引き金に、他の守護大名の家督争いや幕府内での権力争いなどが複雑に関与し、戦国時代の幕開けとも言われる応仁の乱が勃発しました。反幕府軍の西軍に属し軍きっての戦上手とされ、各地制圧に尽力した畠山義就。その生涯を戦と共に駆け抜けました。

今回は、畠山義就の一生について生誕から没するまでを年表で紹介し、生涯の間に起きたできごとや歴史上最強の武将と呼ばれる所以、好敵手・畠山政長との戦について記していきます。

畠山義就の基本情報

畠山義就の基本情報をみていきましょう。

畠山義就とは

畠山義就(はたけやまよしひろ)は細川家、斯波家と並ぶ室町時代の守護大名「畠山家」に生まれた武将です。

父・畠山持国に12歳の時に後継に指名され、従兄弟の畠山政長と生涯に渡って家督争いを繰り広げ歴史的な合戦「応仁の乱」のきっかけとなった人物でもあります。

畠山義就の生涯

畠山義就について年表ごとにみていきましょう。

できごと

出生から好敵手畠山政長との対立

父・畠山持国は正室に子供ができなかった為、後継者に弟・畠山持富を指名していました。しかし側室の子畠山義就が12歳の時に面会した後、突然畠山持富への相続を撤回し、畠山義就を後継者に指名します。その7年後畠山持国の死後正式に家督を相続。しかしそれに納得のいかない畠山持富の子・畠山政長と対立することになります。

当時の将軍足利義政も畠山義就を支持しその力も利用し領地を拡大しその地位を我が物としていきましたが、ある争乱に将軍の許可を得ず軍を派遣したことで将軍の逆鱗に触れ全ての領地を没収され、吉野に追われてしまいます。その代わりに家督に着いたには大大名・細川勝元を味方につけた従兄弟・畠山政長でした。

しかし吉野に潜伏時、大大名・山名宗全と細川勝元を討つことを目的とした同盟を結び再び上洛。細川勝元に勝利し山名宗全が幕府の実権を握り、畠山義就も畠山政長を破り再び家督を奪い返し幕府の重臣に復帰しました。しかし畠山家の家督争いはこれでは終わりませんでした。

応仁の乱開戦

幕府の実権を争う山名宗全と細川勝元、家督争いをする畠山義就と畠山政長、同じく家督争いをしていた斯波義敏と斯波義廉、さらに9代目将軍に内定している足利義視と自分の子を将軍にしたい足利義政の妻・日野富子の4つの争いがまとまり1つの大きな戦争が起こりました。これが応仁の乱です。

山名宗全の下、西軍となった畠山義就ですが、東軍優勢になった所で将軍足利義政は東軍支持を表面。よって西軍は反幕府軍となり士気も下がっていきました。しかし畠山義就は各所の戦に赴き孤軍奮闘。畠山義就の頑張りと長門の国の守護大名・大内政弘が加わったことで西軍は再び息を吹き返し、力関係は五分となり膠着状態に入りました。この時点で東軍16万西軍11万の大合戦となっています。

この大合戦も段々と収束をみせ両軍総大将の山名宗全と細川勝元が亡くなった所で両軍戦意喪失。各地で和睦が行われましたが、畠山義就だけは講和に反対し畠山政長を攻撃し続けます。そして河内と大和を制圧しました。

日本初の独立国を建国

応仁の乱は東軍の勝ちに終わったので畠山氏の当主は畠山政長になりましたが、応仁の乱で最後まで講和に応じなかった為、実質河内と大和の実権を握っていたのは畠山義就。河内を日本初の幕府の管理下にない独立国として幕府に認めさせようしたことで畠山義就は戦国大名の先駆けと言われています。

以後幕府が畠山義就に追討令を出たことで、畠山政長が再三・畠山義就に挑みますが全て撃ち払い、追討されないまま享年54歳で死去。最後まで好敵手・畠山政長との決着はつく事なく、家督争いは子供・孫へと引き継がれていくことになりました。

畠山義就の人柄

畠山義就の人柄について紹介していきます。

歴史上最強の武将? 応仁の乱を長引かせた張本人

11年間も続いた応仁の乱ですが、その長すぎる戦に心が折れる人が続出。西軍総大将の山名宗全も戦いが続くにつれ降伏する意向を示すようになりますが、これに畠山義就は猛反対。ついにはそのストレスで山名宗全が切腹しようとしたという資料まで見つかったほど。東軍総大将の細川勝元もそ出家して隠居を企んでいたという説ありあますし、実際に将軍の足利義政に至っては9歳の息子に将軍職を譲り引退しました。

しかし畠山義就は11年間西軍一の戦上手として各地で暴れ続ける。総大将に降伏することを許さない。各地で終戦の気配がしているにも関わらず戦をし続ける。など戦狂エピソードには事欠きません。その強靭なメンタルと諦めない心から歴史上最強の武将とも言われています。また畠山義就がいなければ応仁の乱はもっと早く終わっていたという歴史学者もいるようです。

戦だけでなく国作りの才能も

河内を独立国にした畠山義就ですが、支配するにあたり独自の法律まで作っていました。その中の一つに当時国から給料をもらえていなかった足軽に給料を与え略奪を禁じたというものがあります。こういった政策が民衆に支持され、短期間で河内の国を治められました。このことから国づくりの才能もあることが伺えます。

畠山義就のエピソード

畠山義就の逸話やエピソードについて紹介していきます。

出生の秘密 母は遊女?

畠山義就は側室の子として生まれました。母の名は土用と言われていて彼女は当時の遊女、今でいう風俗嬢だったと言われています。こういった事情により父・畠山持国には他に子供がいなかったにも関わらず、嫡子とされず石清水八幡宮の社僧になるはずでしたが、12歳の時に突然父から呼びだされ初対面。その後すぐ自分の後継者に任命しました。やはりどんなに偉い一家の長も自分の子供は可愛いということでしょうね。

人心掌握術にも長けていた

室町時代は土一揆と呼ばれる借金を帳消しにする民衆活動が活発に行われていました。主に農民たちが集まって行っていましたが、その力は非常に強く鎮圧しようとした幕府軍が撤退することも少なくありませんでした。そんな土一揆に対して畠山義就は鎮圧しようとせず耳を傾けていたと言われています。これによって他の大名から疑いの目をかけられたりしますが、戦が始まると自分の意見を聞いてくれたと地方の武士が集まり簡単に負けることはありませんでした。

戦国武将の先駆けとなった豪将

畠山義就の死後、各地で幕府の支配を受けない独立した国が誕生し、領地を奪い合う戦国時代が始まります。多くの人々を魅了する戦国武将達は畠山義就無くして誕生しなかったということです。

織田信長などの三英傑などと比べてあまり知られていませんが、根強い武将ファンがいるのも確かです。応仁の乱が大河ドラマになったり、ちょっとしたことがきっかけで人気が出るのは間違い無いでしょう。