長谷川等伯の子孫や「長谷川派」について!作品は「松林図屏風」など80点以上!

長谷川等伯は武士の子として生まれ、幼いころに長谷川家に養子に出されています。長谷川等伯が画家として世に知られるようになったのは、40歳を過ぎたころで、当時は狩野派が権力者と結びついて絵画の制作を担っていたので、入り込む隙はありませんでした。

しかし、長谷川等伯は千利休などと結びつくことで、豊臣秀吉の注文を受けることに成功しています。長谷川派は一時期は狩野派と並ぶくらいの勢力を持ちますが、長谷川等伯の死後は、衰退しています。今回は長谷川等伯の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

長谷川等伯の基本情報

長谷川等伯の人生

できごと

長谷川家の養子になる

長谷川等伯は、能登の大名:畠山氏に仕える家臣:奥村文之丞宗道の子として生まれています。幼いころに、染物屋を営む長谷川宗清の養子となりました。長谷川宗清ですが、等春(雪舟の弟子)の門人として仏画などを描いています。長谷川等伯は養父:長谷川宗清から絵の手ほどきを受け、長谷川家が熱心な日蓮宗信者だったことから、当初は法華関係の仏画や肖像画などを描いています。

名も長谷川信春と名乗っていました。現在残っている長谷川等伯の最初期の作は、26歳の時に描いたもので完成度は極めて高いです。当時の七尾(畠山氏の拠点)は小京都と呼ばれるほど栄えており、良質な顔料が使われています。長谷川等伯は七尾と京都を何度か往復し、京都で絵画の技法を学んでいたと考えられています。

上洛し、千利休などと交流

1571年、33歳の時に養父母が相次いで亡くなり、妻子を連れて上洛。1589年ころまで長谷川等伯に関する史料は残されていませんが、当初は狩野派の狩野松栄の元で学んでいますが、すぐに辞めています。京都と堺を往復しており、千利休などと交流しています。狩野派の様式を学びながら、中国絵画に触れ、独自の画風を確立していったのはこの頃だと言われています。

1589年、大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たします。「等伯」を名乗るのはこれから間もなくだったと言われています。1590年に豊臣秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとしますが、狩野永徳・狩野光信が申し出たことで取り消されています。

この頃は、まだ狩野派の力が強かったですが、1ヶ月後に狩野永徳が急死すると、1591年には豊臣秀吉の嫡子だった鶴松の菩提寺の祥雲寺(現:智積院)の障壁画制作を請け負うことに成功しています。豊臣秀吉にも気に入られ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となっています。

晩年は?

長谷川等伯は、1610年に徳川家康の要請で次男:長谷川宗宅と共に江戸に赴きますが、江戸到着後2日目に病死しています(享年:72歳)。遺骨は京都に移され、本法時に葬られていますが、その後墓所が不在になったため、2002年に新しく建てられています。

長谷川等伯の人柄・人物像

長谷川等伯の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

千利休は良き理解者

狩野派とは、当時の最大の絵画集団でした。豊臣秀吉や徳川幕府などの注文も受けるいわゆる御用絵師を多く輩出しています。狩野永徳は絵画の専門教育を受けていましたが、長谷川等伯は地方出身の絵師で、知名度もありませんでした。そんな長谷川等伯ですが、千利休との交流で、豊臣秀吉へと接点を持てるようになったと言っても良いでしょう。

長谷川等伯にとっては千利休は良き理解者だったようで、豊臣秀吉の命令で千利休が切腹すると、千利休の肖像画を描ています。

狩野派は長谷川等伯を恐れていた

狩野派は当時、最大絵画集団でいわゆる「御用絵師」でした。豊臣秀吉や江戸幕府からの注文も多く受けていました。新参者の絵師だった長谷川等伯に注文を取られるのを避けるため、狩野永徳はこれを取り消すように申し出たこともあります。

このような出来事から狩野永徳は、長谷川等伯が狩野派を追い抜くかもしれないという危機感があったと見ても良いでしょう。

長谷川等伯の名言・エピソード

長谷川等伯の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

雪舟の5代目を名乗る

長谷川等伯は、自身を雪舟から5代目だと標榜していた時期があります。画系だと、雪舟ー等春(雪舟の弟子)ー法淳(養祖父)ー宗清(養父)ー等伯、となり、当時評価の上がっていた雪舟の名を前面に掲げ、間に祖父や父の名を加えることで、自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言しています。

これが功を奏し、次々と注文を依頼されるようになり、単なる町絵師ではなく、京都における有力者となって行きました。

長谷川派はどうなった?

長谷川等伯には、久蔵・宗宅・左近・宗也の4人の子供がいました。長男:久蔵は長谷川等伯に勝るほどの腕前を持っていましたが、26歳で亡くなっており、次男:宗宅が家督を継いでいます。しかし、宗宅も長谷川等伯が死去した翌年に亡くなっています。

その後、三男:左近が家督を継ぎ、父:長谷川等伯に倣い、「雪舟6代目」を名乗っています。四男:宗也は4人の中では最も長く続いた系統でしたが、技量は兄たちよりも劣っていました。長谷川等伯のころの長谷川派は、狩野派よりも色彩感覚に優れ、斬新な意匠を得意としていましたが、長谷川等伯の死後はこれといった画家が出ずに没落しています。

一方の狩野派ですが、江戸時代以降も続きますが、江戸幕府の終焉と共に歴史的な役目を終えています。しかし、現代の日本美術界に大きな影響を与えています。

フィクションにおける長谷川等伯

フィクションにおける長谷川等伯について、紹介したいと思います。

信長の野望における長谷川等伯

武将ではないので長谷川等伯は、信長の野望には登場しません。しかし、太閤立志伝というゲームでは長谷川等伯に絵画の制作依頼ができるようです。

ドラマにおける長谷川等伯

長谷川等伯が登場するドラマは今のところありません。しかし、長谷川等伯を描いた小説は少ないながらもあるようです。

長谷川等伯の作品は80点以上ある

長谷川等伯は能登地方ではそれなりに知名度もあったようですが、全国的にはほぼ無名でした。しかし、40代以降は千利休などの後ろ盾もあり、急速に知名度を上げていきました。当時は絵画業界は狩野派が権力者と結びついていた為、入り込む隙がなかったと思われます。

長谷川等伯は、80点以上の作品を残しており、その多くは重要文化財や国宝に指定されています。代表作で国宝に指定されている「松林図屏風」ですが、このころに長男:久蔵が亡くなっていることもあり、自分自身のために書いたものであるとも言われています。