蒲生氏郷は会津藩の礎を築いた!子孫はどうなった?

蒲生氏郷は織田信長、豊臣秀吉のもとで様々な戦に参加し功績をあげ、その統一事業に貢献をした人物でした。活躍は武力面だけに限らず、内政面、そして文化的素養も持ち合わせた人物でした。

この記事では蒲生氏郷の生涯を年表付きで分りやすく解説します。蒲生氏郷がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける蒲生氏郷など、様々な視点から解説していきます。

蒲生氏郷の基本情報

蒲生氏郷は戦国時代から安土桃山時代に生きた武将です。織田信長、豊臣秀吉に従い数々の戦に従軍して功績をあげました。

蒲生氏郷の人生(年表付き)

できごと

織田信長のもと、各地で戦う

蒲生氏郷は弘治2年(1556)に、六角氏の重臣蒲生賢秀の長男として近江国蒲生郡日野に生まれます。永禄11年(1568)に六角氏が織田信長によって滅ぼされると、蒲生賢秀は織田信長に降り、氏郷は岐阜に赴きます。同地で元服をし、忠三郎賦秀と名乗ります。翌12年(1569)に信長に従って伊勢に戦い初陣を飾ります。そして同年に信長の次女を娶り、日野に帰国します。

元亀元年(1570)には朝倉攻めに従軍し、5510石の加増を受けます。その後姉川の戦い、天正元年(1573)に越前朝倉攻め、近江小谷城攻め、天正3年(1575)に長篠の戦い、天正6年(1578)に摂津伊丹城攻めなど織田信長の全国統一事業のもとで各地に赴き武功をあげました。本能寺の変発生時、氏郷は日野に存城しており、安土から信長の家族を引き取り、籠城のかまえをみせます。

豊臣秀吉の統一事業でいくつもの功績をあげる

天正11年(1583)羽柴秀吉と結び、滝川一益が占領する伊勢国亀山・峯城を攻略し、戦後はその功により亀山城を与えられます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは秀吉方に付き、伊勢国で織田信雄の勢力と戦い、戦功をあげます。これにより伊勢松ヶ島12万石の加増を受けました。翌13年(1585)には紀州攻め、越中佐々攻めに従軍し、氏郷と改名、また大坂で洗礼を受けてレオンと称します。

天正15年(1587)に九州攻めに参陣、豊前巖石城を落とす功績をあげ、そののちに羽柴姓を与えられます。天正18年(1590)に小田原征伐に参陣し、同年に会津を中心に陸奥・越後12郡42万石に移封されました。

奥州へ移封、各地の武力蜂起を平定する

氏郷の会津移封は伊達正宗を抑えるための策だったともいわれています。天正19年(1591)には葛西大崎一揆、九戸の乱と、奥州各地で発生した武力蜂起を鎮圧し、その功で陸奥・出羽7郡18万石余を加増されます。

文禄元年(1592)、文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋に赴きます。氏郷はこの陣中で体調を崩し、翌年に会津へ帰国しますが病状は悪化、文禄3年(1594)に養生のため上洛しますが回復せず、文禄4年(1595)に伏見の蒲生屋敷で死去しました。

蒲生氏郷の人柄・人物像

蒲生氏郷の人柄や人物像についてまとめます。

内政を積極的に行う

様々な戦いで功績を上げた一方で、城下町の建設なども積極的に行いました。天正16年(1588)に伊勢国松坂城を築城すると、寺院を町の外側に置き、町筋を直線ではなく角を要所に造って一度に多くの敵兵が攻め込めない工夫をしました。また、それまでの居城であった松ヶ島城下の武士や商人を強制的に移住させ、城下町を作り上げます。

奥州へ移封して会津に鶴ヶ城を築いた時も、同時に城下町の開発を実施し、旧領である日野や松坂から商人を呼び寄せ、定期市の開設、楽市・楽座の導入など商業政策を行い、江戸時代の会津藩発展の礎も築きました。

蒲生家の血筋は絶えた?

蒲生氏郷は当時の戦国大名としては珍しく側室を置きませんでした。正室の相応院とのあいだに儲けた男子やその孫たちも氏郷同様に早世してしまい、蒲生家は断絶してしまいました。また、娘のひとりは豊臣秀吉に嫁ぎ三の丸殿と称されるようになりますが、子どもの記録は残っていません。氏郷の子孫は記録上はいないといえるでしょう。

蒲生氏郷の名言・エピソード

蒲生氏郷の名言・エピソードについて解説します。

死因と辞世の句

蒲生氏郷は文禄4年(1595)に40歳で死去します。文禄2年(1593)に肥前国名護屋城で発病すると、秀吉は氏郷の治療にあたり9名の医師団を指揮して、治療を行わせました。3年後に没するまでの間のカルテが残っており、それによると死因は直腸癌や肝臓癌であったと推測されます。

辞世の句は「かぎりあれば 咲ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」(花の一生は限りあるのだから、風が吹かなくてもいずれ散ってしまうというのに、どうしてせわしなく春の山風は吹くいうのだろう)。自らの早世を嘆いたものでした。幸田露伴など、後世の人物もこの句について言及しており、戦国武将の辞世の句として白眉であるとも評されています。

文化人としての素養

茶道に深い理解があり、千利休に指示し、細川忠興・古田織部・高山右近などとともに利休七哲の一人に数えられています。日野町には氏郷が茶の湯に用いたとされる湧水「若草の清水」が残っており、鶴ヶ城の庭でもよく茶会を開いたといわれています。

また和歌や連歌も学んでおり、文禄の役で会津から九州へ向かう途中、近江国武佐で故郷の日野を偲んで「思ひきや 人の行方ぞ 定めなき 我が故郷を よそに見んとは」という詩を詠んでいます。

フィクションにおける蒲生氏郷

フィクションにおける蒲生氏郷を解説します。

信長の野望における蒲生氏郷

シリーズによっても異なりますが、統率90、武勇82、知略84、政治89と、功績に見合うような高い数値となっています。

ドラマにおける蒲生氏郷

織田・豊臣政権のもと多方面で活躍した蒲生氏郷ですが、主役として描かれる作品は今のところないようです。2002年の大河ドラマ「利家とまつ」、2006年「功名が辻」などで登場しています。

蒲生氏郷は信長、秀吉に一目置かれた人物だった!

蒲生氏郷は織田信長、豊臣秀吉のもとで活躍をし、一目置かれていた人物でした。氏郷が病を患った際に秀吉が医師団を組織して治療にあたらせたことからも、重用されていた様子をうかがい知る事ができます。内政面でも城下町の形成や経済政策を積極的に行い、茶道や連歌など文化的な素養も持っていたことから、まさに非の打ち所のない人物だったように思えます。

早世したことを秀吉だけでなく多くの人物が惜しんだのではないでしょうか。