フランシスコザビエルは初めて日本にキリスト教を伝えた宣教師!親日家の一面も

フランシスコザビエルは日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師として有名です。日本だけでなくインドなどでも布教を行い、彼を守護聖人として祀る国は数多く存在しています。

この記事ではフランシスコザビエルの生涯を年表付きで分かりやすく解説します。フランシスコザビエルがどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおけるフランシスコザビエルなど、様々な視点から解説していきます。

フランシスコザビエルの基本情報

フランシスコザビエルは現在のスペイン北部・ナバラ王国出身で、日本における戦国時代を生きた宣教師です。

ポルトガル王・ジョアン3世の依頼で東洋へのキリスト教布教を目指して渡航を開始し、日本に初めてキリスト教を伝えました。

フランシスコザビエルの人生

できごと

モンマルトルの誓い

フランシスコザビエルは、1506年、ナバラ王国のハビエル城で誕生しました。父は、ドン・フアン・デ・ハッソと言い、ナバラ王フアン3世の宰相を務めていた人物でした。

ナバラ王国は小国であり、フランスとスペインの紛争地となった後、1515年にはスペインに併合されました。フランシスコザビエルが誕生した時、既に60歳であった父はこの混乱の中で死去し、2人の兄も軍人となり戦場に出ていました。

フランシスコザビエルも軍人になるよう望まれましたが、彼はこれを拒否して、19歳の時に名門のパリ大学に留学します。パリ大学は多くのカレッジの集合体であり、その一つである聖バルブ学院という寄宿学校に入学しました。

ここで同室となったのがピエール・ファーブルであり、1529年にはイグナチオ・ロヨラがルームメイトとして加わりました。イグナチオは宗教的カウンセリング「霊操」を教え、学友として深く語りあった3人はやがて同じ志を持つようになりました。

フランシスコは大学で哲学を学んおり、哲学コースの最終過程に入り、教授への道も目前と迫っていたところで、この友人達の影響を強く受けて、聖職者を志す決心をします。

イグナチオ・ロヨラはかつて騎士をしており、フランシスコザビエルら他の学生よりも年上(同室になった時点で37歳)で、「霊操」はじめキリスト教的学識にも優れており、その教えを求めて多くの青年達が彼の元に集まっていました。その中でも重要な同志として、フランシスコザビエル、ピエールファーブル、そしてディエゴライネスら6人のメンバーがいました。

1534年8月15日、彼らはモンマルトルの聖堂において、「生涯を神に捧げること」「清貧と貞節」「エルサレムの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでも行く」という誓いを立てます。後に「モンマルトルの誓い」と言われるものです。

これがイエズス会の創設であり、1537年に一行はイタリアへ赴き、教皇パウルス3世により高い徳と学識を認められて司祭への叙階を認められました。1540年にイエズス会は正式に認可を与えられ、ヨーロッパ全域で活動するようになっていきました。

イエズス会の活動内容は、神学校の設立などの高等教育、異教徒を信仰に導く宣教活動、そして拡大するプロテスタントに対する防波堤としての活動でした。

彼らの活動により、南ドイツやポーランド、オーストリアではプロテスタントが衰退しカトリックが再興すという成果が上がりました。

インド、そして日本へ

モンマルトルの誓いの中の「エルサレムの巡礼」は、当時の情勢により果たすことは出来ませんでしたが、彼らはこれに変わって当初からテーマとしていた世界宣教を実現しようと取り組み始めます。

その頃、イエズス会の創設を耳にしたポルトガル王・ジョアン3世は、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣してほしいと、イエズス会の初代総長となっていたイグナチオロヨラに依頼します。

これに対して彼がフランシスコザビエルらを推薦したため、ポルトガル領であったインド西海岸のゴアに向かうことが決定しました。そして1541年にリスボンを出航し、1年弱の航海の末、1542年にインドのゴアに到着しました。

フランシスコザビエルは到着後直ちに布教を開始し、まずは癪病人や囚人、貧民といった社会的弱者に対して教えを授けました。その後、インド各地で宣教していき、1545年にはマラッカ(マレーシア)、1546年にはモルッカ諸島(インドネシア)にも赴きキリスト教を広めました。

1547年、マラッカに戻ったフランシスコザビエルは、そこで日本人・ヤジロウに出会います。彼は薩摩国の出身で、若い頃に殺人の罪を犯したために、薩摩に来航していたポルガル船に飛び乗ってマラッカに逃れていた人物でした。

ヤジロウは、その罪を告白するためにフランシスコザビエルを訪ねました。フランシスコザビエルの導きによりゴアに送られたヤジロウはこの地で洗礼を受け、日本人初のキリシタンとなります。

フランシスコザビエルが彼に日本での布教の是非を問うと、ヤジロウは「スムーズに進むでしょう」と答えます。これを聞いたフランシスコザビエルは、ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を信頼して、日本への布教を決心したのでした。

薩摩国から京都を目指して

こうして1549年、ヤジロウらを引き連れてゴアから出発し、日本を目指しました。同年8月15日に薩摩国に到着、翌月には薩摩国守護大名の島津貴久に謁見し、宣教の許可をえました。

島津氏は室町時代から明や琉球と積極的な交易をしており、この宣教の許可も南蛮船との交易を期待したものでした。この薩摩国での宣教の過程では、以降フランシスコザビエルの日本での布教活動を支え、日本人初のヨーロッパ留学生となるベルナルド(日本名は不明)との出会いがありました。

しかし、キリスト教の宣教に対しては国人衆や仏教勢力からの反対の声も強く、また島津貴久が期待したほどの南蛮船の来航もなかったため、彼が禁教に傾き始めると、1550年に長崎の平戸へと移ります。

薩摩国では約100人もの人々を改宗させたと言われるフランシスコザビエルですが、平戸の地ではわずか20日ほどの短期間でそれ以上の信者を獲得したと言われています。

同年、周防国に入り、守護大名・大内義隆に謁見します。しかし、フランシスコザビエルが旅装のまま、ろくな進物も持たずに面会に臨んだこと、さらに大内義隆の男色を非難するなどして、これが大いに礼を欠くとして布教の許可は下されませんでした。

そこでフランシスコザビエルは続いて堺へと移り、そこで豪商の日比谷了珪の支援を受けて1551年に京都へと到着します。ここで天皇に謁見し、日本全土における布教活動の許可を得るのが目的でありました。

後奈良天皇と室町幕府将軍の足利義輝への拝謁を請願しますが、ここでも献上の品がないことを理由に許可されませんでした。当時の京都は度重なる戦乱により荒廃しており、天皇や室町幕府の権威も失落していたことも背景としてありました。

フランシスコザビエルの京都滞在はわずか10日余で終わり、失意の内に平戸に戻ることとなりました。

大内義隆との再謁見

平戸へと戻ったフランシスコザビエルは、ここに残していた献上品を携えて、再び周防国へと移ります。

1551年、前回の反省を踏まえ、服装を整え、望遠鏡・洋琴、置き時計、眼鏡、小銃などの献上品を持って大内義隆と謁見しました。大内義隆はこのフランシスコザビエルの態度を気に入り、ついに同地での布教活動を認めます。そしてその活動の拠点として、廃寺となっていた大道寺も与えました。

大道寺を拠点として1日に2度の布教活動を行い、その中では宗教以外の天文学や自然科学なども授けました。わずか2か月ほどの期間の中で、500人以上の信徒を獲得したと言われています。

ここでは琵琶法師で後にイエズス会宣教師となるロレンソ了斎との出会いもありました。彼はフランシスコザビエルによって洗礼を受け、後に足利義輝との謁見を果たして布教の許可を得て、その後も三好長慶・織田信長らとも交流を持って、日本におけるキリスト教布教に大きな役割を果たした人物です。

同年、豊後国にポルトガル船が寄港すると、フランシスコザビエルはインドにおけるイエズス会の布教状況を知るために豊後国へと移ります。

この地で守護大名・大内宗麟に迎えられたフランシスコザビエルは、その保護を受けて布教活動を行いました。大友宗麟は後に自らキリスト教洗礼を受けてポルトガル国王に親書を送っており、この功績が讃えられてフランシスコザビエルの霊名はローマにまで広がることとなりました。

中国へ

豊後国でインドにおける布教状況を聞いたフランシスコザビエルは、「インドの方が日本よりも自分の存在を必要としている」と考え、寄港していたポルトガル船に乗り込んでゴアに戻ります。

1552年にゴアに到着したフランシスコザビエルでしたが、今度はそこで「日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えてリいる中国での布教が不可欠である」と考えるようになり、中国を目指して出航、同年9月に上川島に到着します。

しかし、当時の中国は鎖国状態にあって入国できず、広東の港の外にある上州島での待機を余儀なくされました。

ここでこれまでの疲労がたたり、病を発症したフランシスコザビエルは、12月3日、この地で没しました。46歳でした。

フランシスコザビエルの人柄・人物像

フランシスコザビエルの人柄や人物像について説明します。

書簡から見える人柄と信仰

フランシスコザビエルはその長い旅路の中で数多くの書簡をしたためていますが、その中からは彼の人柄と信仰が読み取れます。

(1546年5月10日アンボンにおける書簡)

「イエズス会員として十分な学識や能力に恵まれていない者であっても、もしもこちらの人々と共に生き、共に死ぬ覚悟で来る人であれば、この地方のために有り余るほどの知識と能力をもっていることになります」

(1549年11月5日鹿児島における書簡)

「この深い謙遜からのみ、神へのより大きな信仰、希望、愛が、そして隣人への愛が、”心のうちに”増してくるのです。なぜなら、自分自身への不信頼から真実の神への信頼が生まれるからです。そしてこの道によって、内心からの謙遜を得られるでしょう。」

フランシスコガブラルとの比較

フランシスコザビエルと同じく「フランシスコ」の名前を持つフランスシスコガブラルは、同じくイエズス会の宣教師であり、日本布教区の責任者として、1570年に来日した人物です。

前任者からフランシスコザビエルと同じように日本人の資質を高く評価し、日本文化に根ざした生活スタイルを求められたフランシスコガブラルでしたが、彼はフランシスコザビエルとは対照的に徹底的に日本人と日本文化を下劣なものとみなして差別しました。

「私は日本人ほど傲慢、貧欲、不安定で、偽装的な国民は見たことがない。日本人は悪徳に耽っており、かつまたそのように育てられた」という彼の言葉は、フランシスコザビエルの日本人評とは対局をなすものです。

このような差別的な態度によりフランシスコガブラルの日本における布教は困難を極め、大きな成果があがりませんでした。(後に差別的な態度を否定されて解雇される)

しかし、スペインやポルトガルといった大国から来た宣教師たちが戦国時代の日本について下に見ることは、当時の文化レベルの差からして当然とも言え、フランスシスコガブラルの日本評や日本における布教の態度について、一方的に批判することは不当であるとも言えます。

むしろ、より時代をくだって初めて日本における布教を行なったフランシスコザビエルが、文化的に劣った国であるという固定概念に縛られず、平等な目で日本人を評価したフランシスコザビエルの温厚さ・心の広さこそ評価すべきであり、彼の残した日本人に対する高評価はその後の欧米諸国でも大きな影響を残しました。

フランシスコザビエルの名言・エピソード

フランシスコザビエルの名言やエピソードについて解説します。

フランシスコザビエルから見た日本人

フランシスコザビエルはその書簡の中で日本人についての印象を記述しており、非常に好意的な印象を持っていたことが伺えます。

「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじています」(1549年11月鹿児島における書簡より)

「日本の人々は慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、またその他様々な優れた資質がありますから、彼らの中で大きな成果をあげられないことは絶対にありません。(1552年1月コーチンにおける書簡より)

仏教勢力の強い日本における布教活動は困難を極めるものであったにも関わらず、この他にもフランシスコザビエルは日本人を賞賛する記録を残しています。

また、薩摩国での布教中には福昌寺の住職・忍室と友人となり、彼とは好んで宗教論争を行なったとされます。

フランシスコザビエルの奇跡

フランシスコザビエルはその布教活動の中で、数々の奇跡をおこしたエピソードが残っています。

1543年、インド南端に住むパラヴェル人に対して布教を行なっていたところ、井戸に落ちて男の子が絶命してしまうという事態に遭遇します。フランシスコが神に祈りを捧げたところ、男の子が息を吹き返しました。これによって多くのパラヴェル人がキリスト教に改宗したと言われます。

続く奇跡は、1546年、マラッカから東方のアンボイナ島に渡り、続けてセラン島に渡ろうとした際の出来事です。

この渡航の途中、暴風雨にあって船が沈没しそうになりました。フランシスコザビエルはこの時胸にかけていた十字架をはずし、海中に浸して神に祈ります。すると十字架の紐が切れて波の中に消えていき、その瞬間暴風雨がおさまったのでした。

こうして無事にセラン島に到着すると、一匹のカニが波中に消えたはずの十字架をはさんであがってきて、十字架はフランシスコザビエルの手元に戻りました。彼は神のご加護を深く感謝し、祈りを捧げたと言います。

フランシスコザビエルはアジア各地に教えを広めた人望高い宣教師だった

フランスシスコザビエルは大学で友人と共に聖職者の道を志し、イエズス会を設立して以降、深い知識を身につけて、生涯を東洋への布教に捧げました。

フランシスコザビエルにより聖パウロを超えるほどの多くの人々がキリスト教を信仰するようになったと言われ、日本でも多くのキリシタンが誕生しました。日本国内には、山口ザビエル記念聖堂など、フランシスコザビエルを保護聖人として名を戴く教会が33あります。

1549年にフランシスコザビエルにより日本に初めてキリスト教が伝えられたということは日本人の多くが知るところですが、その布教活動の様子や人柄についてはあまり知られていません。

彼は来日してから1552年に日本を出発するまでの短い期間に積極的な布教活動を行なっており、日本以外の東洋諸国でも困難を極めながらも各地で大きな成果があげました。この功績は、彼の深い知識と温厚で親しみやすい人柄による所も大きいと言えるでしょう。