藤原惺窩は近代儒学の祖で林羅山の師!理想の国は朝鮮だった?

藤原惺窩は儒学者であり特に朱子学を学び「近代儒学の祖」と称される人物です。林羅山をはじめとする多くの弟子を育て、江戸時代の朱子学の官学化・興隆の端緒を成しました。

この記事では藤原惺窩の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。藤原惺窩がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのかなど、様々な視点から解説していきます。

藤原惺窩の基本情報

藤原惺窩(ふじわらせいか)は、播磨国出身の、戦国時代から江戸時代前期を生きた儒学者です。

朝鮮の儒学者・朱子学者との交流を通じ深く朱子学を学び、徳川家康はじめ多くの武将に教えを講じましたが、誰にも仕官することなく一生を終えました。

藤原惺窩の人生

できごと

生誕から金誠一らとの出会いまで

藤原惺窩は1561年に播磨国で生まれました。

実家は藤原定家の子孫にあたる公家の下冷泉家でしたが、三男であり庶子でもあったため、幼い頃から仏門に入れられました。17歳頃に叔父を頼って京都の相国寺(臨済宗)に入り禅僧となり、禅学と儒学を学びます。当時の儒学は、五山僧の基礎教養の一つに過ぎず、広く知られているものではありませんでした。

青年期の藤原惺窩も、あくまでも禅僧として研鑽を積んでおり、儒学はその補足のような位置付けで学んでいたに過ぎませんでした。

転機となったのは、1590年に豊臣秀吉の命を受けて来日した朝鮮通信使、金誠一らとの出会いです。当時の朝鮮では、朱子学が国学であり、政府高官試験にもこれが採用されていました。朱子学とは、儒学の愛情と道徳を重んじる考えを基本として、それを拡張させ壮大な宇宙論としてまとめ直した哲学です。

万物がこの世に存在する根拠や法則、秩序を「理」、万物を構成する具体的な物質のことを「気」と位置付け、この理と気の連動によって全てのことが説明できると考えます。

こうした理と気の法則からすれば、身分の上下が生まれることも、主君(上の立場の者)への忠節が大切になることも当然で、秩序を保つために重要になるという考えや、武力で圧するのではなく、文知を持った聖賢な王が統治すれば安泰した国が出来上がるという考えなどが導かれます。

藤原惺窩はこの朱子学の考えに感銘を受け、以降傾倒するようになっていきました。

明への渡航計画と姜沆との交流

藤原惺窩は、朱子学を国学とする明や朝鮮こそ聖賢の国であると考え、留学を強く希望していましたが、それは叶えられませんでした。

そこで、36歳の時、儒学を直接学ぼうと自ら明への渡航を計画します。6月に京都を出発、まずは薩摩まで行き、藩主島津義久の承諾まで取り付けたものの、その後天候に恵まれず結局失敗に終わります。

失意に暮れていた藤原惺窩でしたが、1598年に朱子学者姜沆と出会います。

姜沆は豊臣秀吉の朝鮮侵攻に際して軍糧補給などをしていた所を捕らえられ、捕虜として日本に連行され、軟禁されていました。共通の知り合いであった医師を通して出会い、姜沆が1600年に帰国するまで、彼を事実上の師匠と仰ぎ交流を深めました。

この間、藤原惺窩は姜沆に儒教の教科書ともいえる『四書五経』について筆写・解説してもらう等、朱子学についてより深く学びます。そして姜沆が筆写した四書五経を元に日本語解説を加えながら執筆したのが、『四書五経倭訓』です。これが江戸幕府の朱子学教育の教科書的存在となり、ここに藤原惺窩を祖とする朱子学の一派「京学派」が構成されました。

数多くの武将に教えを講じ弟子を育成

藤原惺窩の才能は広く知れ渡り、多くの大名や公家、僧侶達がその教えを請いました。

例として、赤松広通、小早川秀秋、直江兼続、そして徳川家康らが挙げられます。中でも徳川家康は、藤原惺窩に対し邸宅や米給を与え、1605年には仕官を要請しましたが、これを辞退し、弟子であった林羅山を推挙しています。

1604年、当時20歳ほどだった林羅山が入門し、他にも数多くの門弟を教育します。

林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の4名は惺門四天王と称され、朱子学隆興の大きな役割を担いました。特に、藤原惺窩に推挙され江戸幕府の儒官となった林羅山は、その後朱子学の官学化を推し進め、その中心を担った「林派」の祖となります。

藤原惺窩の人柄・人物像

藤原成惺窩の人柄や人物像についてまとめます。

姜沆からみた藤原惺窩

姜沆が著した『看羊録』中に、藤原惺窩についての記述があり、彼を高く評価しています。

「妙寿院の僧、舜首座(藤原惺窩のこと)は、大変聡明で古文をよく理解し、書にも通じている。性格も強い意志を持ち自分に厳しく、日本では例のみない人物だ。」

一番弟子・林羅山からは批判も受けている

弟子である林羅山からは「わが国儒学の濫觴(祖)」と評され師匠として尊敬されている一方で、藤原惺窩は陽明学や、藤原惺窩が元々禅僧であり相国寺で学んでいたこともあって、朱子学者の多くが批判していた仏教学まで寛容に受け入れていたため、「日和見主義者だ」という批判もされています。

司馬遼太郎からの評価

司馬遼太郎著『韓のくに紀行』の中の藤原惺窩評を紹介します。

「中世と金世のこの端堺期にぬっと顔を出して倭の社会をはげしく憎悪した最初の異常人であった」

「”学問”をその程度にしかうけとらない当時の荒大名を嫌悪していたに相違なく、かれはつねに傲岸に構え、招待されてもその大名が嫌いな場合はにべもなくことわったりした」

藤原惺窩の名言・エピソード

藤原惺窩の名言・エピソードについて解説します。

藤原惺窩の現代にも通じる名言

「知るものの行なはざるは、知らざるより、劣れるは必定なり」(なすべきことを知りながら行わない者は、何も知らない者よりも劣る)

「人を正しくせんとならば、まづ我を正しくせねばなら理ない」(人を正しい道に導こうとするのなら、まず自分を正すことだ)

徳川家康らにも忖度なし

ある日徳川家康に請われて朱子学の教えを説きに行った際、徳川家康が浴衣を着て現れました。藤原惺窩はこれを無礼であると怒り、帰ろうとしてしまいました。慌てた徳川家康がこれを謝罪したことで、無事に授業が開かれたと言います。

また、司馬遼太郎が「招待されてもその大名が嫌いな場合はにべもなくことわったりした」と記したように、直江兼続が邸宅を訪問した際には、彼を嫌って居留守を使い、四度目の訪問でやっと迎え入れてもらえたというエピソードもあります。

実家は災難続きだった

公家であり藤原定家を祖先にもつ名家であった実家下冷泉家でしたが、1578年に当主であった父が戦国大名の別所氏に攻められて戦死してしまいます。その上、荘園も横領され没落し、貧困に喘ぐことになります。

藤原惺窩は没落した実家の為に尽力し、豊臣秀吉の協力を取り付け、見事下冷泉家を再興させます。しかし、自らは当主とならず弟の冷泉為将を新たな当主に擁立しました。

藤原惺窩は自分にも他人にも厳しい儒学者だった

藤原惺窩は儒学、特に朱子学を体系化し、近代儒学の祖と称された人物でした。その生涯を通して誰かに仕官することはありませんでしたが、弟子の林羅山らを通してその教えは受け継がれ、朱子学を官学とした江戸幕府を支え、数百年における安定した封建国家の根幹となったと言えるでしょう。