土田御前は織田信長やお市の方のお母さん。信長に冷たかった!本当?

土田御前(どたごぜん)とは、尾張(愛知県北部)で当時、勢力を拡大してきた織田信秀に嫁ぎ、後に天下統一にまで手が届くことになる織田信長を産んだのが土田御前です。戦国の世の女性の代表のひとりであるお市の方も土田御前の娘です。今回は、土田御前がどのような人生をおくったのか、どんなエピソードがあるのか、フィクションで語られる土田御前はどんな人なのかなどさまざまな視点から解説していきます。

土田御前の基本情報

 

1510年代後半に生誕したと伝えられる土田御前(どたごぜん)は尾張で着実に勢力を伸ばしていく織田信秀(おだのぶひで)の正室となります。土田御前の嫡子は後に天下統一間近まで戦国の世を駆け抜ける織田信長(おだのぶなが)。土田御前は信長の死後も家族や親族にも支えられ天寿を全うしていきます。

土田御前の人生

 

できごと

 

土田御前の人生を大きく3つの時代に分けると次のようになります。
・織田信秀に嫁ぎ、夫の死後、嫡子信長と次男信行の間で争いが起きた時代
・土田御前が二人の息子を失った時代
・織田信長死後、豊臣秀吉が天下統一を果たした時代

織田信秀に嫁ぎ、夫の死後、嫡子信長と次男信行の間で争いが起きた時代

土田御前(どたごぜん)が嫁いだ先、織田信秀(おだのぶひで)は清州(現在の愛知県清須市)にある織田本家の分家で、三奉行を務める家柄でした。しかし、夫、織田信秀は戦国大名としてだけではなく、都市開発や商才にも優れ、津島神社などの門前町を作り、経済的にも裕福になっていきました。
その経済力を背景として、北の美濃、南の三河、東の駿河に勢力を伸ばしていきました。

土田御前は、織田信秀との間に子宝にも恵まれ、嫡子信長の他にも信行(のぶゆき)、秀孝(ひでたか)、信包(のぶかね)、市(いち)をもうけました。

1551年土田御前の夫、織田信秀は亡くなります。
生前、織田信秀は、嫡男、織田信長に家督を継がせる意向を示してはいたものの実際の分配については織田信長の満足のいくものではありませんでした。織田信長は引き続き、那古野城(なごやじょう)主になりましたが、父、織田信秀のかっての居城、末森城(すえもりじょう)は、弟の信行に引き継がれることになります。
土田御前も引き続き末森城で生活をすることになった上に、織田家の重臣、柴田勝家(しばたかついえ)も信行に仕えることになったのです。。

信長が同盟を結んでいた美濃の斎藤道三が死去すると、信長の勢力は一時的に不安定になっていきました。1556年、信長の弟、信行は信長に対して謀反を起こします。弟、信行が兵をあげたとき、父親、信秀の時代から織田家の重臣である柴田勝家、林秀貞らが信行側につき信長勢の方が劣勢でした。しかし、少数精鋭の家来に守られ、信長は形勢を逆転、稲生の戦い(いのうのたたかい)(現在の名古屋市西区)で信行軍を破ったのです。信長が、謀反を起こした弟、信行を殺さずに許したのは、土田御前からの申し出があったためだったと言われています。しかし、弟、信行はその後も信長への謀反の計画を練り、そのことが信長の知るところとなると、信行は信長によって殺害されることになったのです。

二人の息子を失った時代

可愛がっていた次男、織田信行を失った土田御前でしたが、その後は、長男、織田信長のもとで暮らすようになったと伝えられています。織田家内の内乱を治めた後、信長は他国に向けて勢力を拡げていきました。1560年に駿河の今川義元を破ったのを皮切りに、1567年には美濃を破り、1568年には足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、上洛を果たします。1579年には、琵琶湖の東側に絢爛豪華な安土城を完成させ、信長とともに土田御前も岐阜城から安土城に移りました。1580年の初めには、本願寺や浅井・朝倉家、丹波や甲斐の武田家にも勝利した織田信長は、畿内を含めて主要な地域を手中にして、天下統一間近なところまで登りつめていました。

しかし、1582年6月に事件は起こります。
中国の毛利攻めに備えて、京の本能寺に滞在していた織田信長は、家臣である明智光秀の謀反により自害に追い込まれたのです。次男、信行を失った土田御前は嫡子の織田信長も失うことになったのです。

織田信長死後、豊臣秀吉が天下統一を果たした時代

信長が「本能寺の変」で明智光秀の謀反にあったとき、土田御前は安土城内にいたのではないかと考えられています。信長の留守を預かっていたのが蒲生賢秀(がもうかたひで)でした。信長死去の連絡が入ると、蒲生賢秀は、光秀が安土城へ攻め込んでくることを恐れて信長の家族を含め土田御前を自身の居城のある近江日野城に連れていき保護したと伝えられています。その後、信長の家臣であった豊臣秀吉(とよとみひでよし)が明智光秀を山崎の戦いで討ち果たすと、土田御前は信長の子、織田信雄(おだのぶかつ)(土田御前にとっては孫)のもとで大切にされ大方殿様と呼ばれ、また安心した生活を取り戻したのでした。

しかし、信長の死後、実権を握ったのは、信長直系の織田信雄ではなく、豊臣秀吉(とよとみひでよし)でした。織田信雄は、織田家の復活を目指して徳川家康と組んで、秀吉を倒そうと戦闘を続けましたが、最終的には秀吉と和睦した後、改易になり領地をしりぞくことになったのです。
その後、土田御前は伊勢国安濃津城(いせあのつじょう)の織田信包(おだのぶかね)のもとに移りまた、普段の日常を取り戻したのです。織田信包は土田御前が生んだ末っ子で15万石の城主になっていました。土田御前は、伊勢で平和な生活をおくり、1594年亡くなりました。80歳前後であったと考えられています。

土田御前の人柄

 

土田御前(どたごぜん)は美濃や尾張出身の武家、土田氏(どたし)の出身だと言われています。もともと、美濃の土岐氏や明智氏、あるいは尾張の織田氏と関係の深い家柄の人であったと言われています。武家の家に生まれた土田御前は武家のしきたりや生き方をきちんとわきまえた常識人であったのではないかと考えられています。

ドラマなどでは、とても美しい女性として描かれていますが、実際に織田家は美形の家系で、土田御前の長男である信長も比較的イケメン系であり、娘のお市の方(おいちのかた)も美人であったと言われていています。それは、土田御前の血を引いていたからなのかもしれません。

土田御前のエピソード

 

土田御前の長男、信長が実の父母から離れて暮らすことになった理由とは?

土田御前というと、どうしても嫡男の信長には冷たく、次男の信行ばかり可愛がっていたというイメージがつきまといますが、土田御前が意図して信長を避けていたわけではありません。
室町幕府の時代の慣習として、織田信長も幼少のころから織田家の重臣である平手政秀(ひらてまさひで)に育てられました。日本に限らず中国やその他の国でもよく見られるように家長の家に嫁いできた配偶者(奥さん)の家に自家が乗っ取られてしまうようなことを防ぐためでした。一例をあげると、鎌倉幕府を築いた源頼朝の源家も最終的には、配偶者北条政子の北条家に乗っ取られてしまっています。

一方、土田御前は次男の信行については自分の手元において育てました。ですから、信長よりも次男の信行の方が母親である土田御前や父親の織田信秀とコミュニケーションを取る機会が多く、近い関係は築きやすかったのかもしれません。

もうひとつ言えば、室町時代の慣習として、武家の家で生まれた次男や三男は、お寺に出すのも一般的でした。しかし、織田家では、弟、信行を仏門に入れず、そのまま、織田信秀と土田御前が手元で育てたのです。どうして信行を仏門にいれなかったのかはわかりませんが、はっきりしていることは、もし、信行を仏門に入れておけば、後に起こる織田家内の内紛に発展する可能性は少なかったことでしょう。

長男、織田信長が浅井長政を討伐後、娘、お市の方や孫の面倒を見た土田御前

織田信長は、織田家中の内乱を治めると、1560年には駿河の今川義元を破り、周辺の地域に勢力を伸ばし京を目指すようになりました。尾張から京へ上るためには、その間に美濃(岐阜)と近江(滋賀)があります。織田信長は実の弟のように信頼していた近江の浅井長政(あざいながまさ)に妹のお市の方を嫁がせ浅井家と同盟を結んだのです。信長は1567年には美濃の斎藤龍興を破り、翌年の1568年には足利義昭を15代の将軍にたて上洛しました。信長、上洛の際には浅井長政も同行していました。お市は浅井長政の結婚生活も順調で3人の娘も設けました。

しかし、1570年になると浅井家は信長に反旗を翻します。信長と浅井長政の関係は良好なものではあったものの、浅井家としては信長と同盟を結ぶ前から協力関係を築いてきた朝倉義景(あさくらよしかげ)との関係を重視したのです。信長軍は浅井家の小谷城に追い込みます。浅井長政は、お市の方にあとのことは織田信長に頼れと言い残し市と娘たちを城から逃がし、最後を迎えたのです。

お市の方と娘の三人は信長軍に保護され当時、織田家が拠点にしていた美濃に戻ることになったのです。保護されたお市の方と三人の娘(茶々、初、江)の世話をしたのが土田御前でした。嫁に出した娘、市が土田御前の手元に戻り、次にお市の方が嫁ぐまでの10年以上を土田御前と市たちは仲良く美濃で暮らすことになったのです。

フィクションにおける土田御前

 

次男の織田信行と共謀して長男織田信長を倒そうと計画した土田御前?

土田御前がドラマの中で登場するとき、多くの場合、次男の織田信行ばかりを溺愛し、嫡子の織田信長には、冷たく距離を置き無視していた母親として描かれています。
さらに弟の織田信行が、当主である織田信長への反乱を起こした際には、土田御前は信行と共謀していたとも言われます。信行による織田信長への反乱が失敗すると、土田御前は信長に対して弟を許せと申し出したのでした。

母である土田御前の申し出に信長はその場は弟、信行を許しましたが、信行の信長に対する反抗は止まらず、裏で美濃の斎藤義龍(さいとうよしたつ)と申し合わせて謀反をたくらんでいたと言われています。信長の館を訪れた際、信長は迷わず弟、信行を殺害したと言われています。溺愛していた信行を殺害され、土田御前の悲しみは深かったと言われています。

織田信長を年上の女性好きにしてしまったのは、土田御前のせい?

土田御前の子、織田信長は一説には年上の女性が好みであったとも伝えられています。心理学者の中には、年上の女性を好きになる男性には幼少期にあまり母親の愛情を受けられなかったからであり異性に母性を求める傾向があると言う人もいます。実際に信長は6歳年上の側室、吉乃をもっとも大切にしていたとも言われています。土田御前は、武家の家に生まれた信長に対して武家の家の母親として信長に接していただけなのかもしれませんが、信長の目にはそのようには見えず、母である土田御前は弟の信行の方ばかり可愛がっている母と見えていたのは間違いないでしょう。

土田御前のまとめ

今まで見てきたように土田御前は尾張の織田信秀に嫁ぎ、戦国の主役である織田信長やお市の方を産んだのでした。フィクションの中では、信長に対してつらくあたる母親として描かれていますが、子どもたちを武家の家の子として節度をもって育てあげていったのはないでしょうか?
土田御前の育てた子供たちはそれぞれ、たくましく激しい人生をおくりますが、土田御前よりも先に他界してしまいます。しかし、晩年は土田御前の末っ子である伊勢の織田信包(おだのぶかね)のもとで余生を過ごすことができ、充実した人生を全うできた戦国の女性でもありました。