伊達輝宗は伊達政宗の優しい父親!織田信長とも交流した人格者

伊達輝宗は東北の雄・伊達政宗の父としてその名を知られています。後退していた伊達家を盛り返し、優れた外交手腕で南東北をまとめ上げ、その後の伊達家繁栄の基礎を築いた武将です。

この記事では伊達輝宗の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。伊達輝宗がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける伊達輝宗など、様々な視点から解説していきます。

伊達輝宗の基本情報

伊達輝宗(だててるむね)は陸奥国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

伊達氏は、南北朝時代より足利将軍家と結びつき、その当主は代々将軍から偏諱を授かってきた一族であり、伊達輝宗も将軍・足利義輝より1文字を受けていますが、誰かの配下に入ることはありませんでした。

伊達輝宗の人生(年表付き)

できごと

伊達家混乱の中で誕生する

1544年、父・伊達晴宗と母・久保姫の間に誕生した伊達輝宗でしたが、当時の伊達家は、「天文の乱」と呼ばれるお家騒動の真っ只中でした。

祖父の伊達稙宗は、近隣の蘆名氏と連携しながら、外征を繰り返して勢力を拡大させ、1538年には越後国守護の上杉定実に息子の伊達実元を養子として送り込み、その後継者にしようと画策しました。

しかし、この養子縁組で伊達家の優秀な家臣達が多数上杉家に引き抜かれることを危惧した嫡男・伊達晴宗はこれに反対します。こうして家中が2つに分裂し、1542年には伊達稙宗が幽閉され、戦へと発展してしまいます。

1548年に、室町幕府のとりなしもあって和睦しますが、この争いによって伊達家は衰退、それまで伊達家に服従していた蘆名氏・相馬氏・最上氏らが独立して勢力を拡大するようになったのでした。

伊達家当主となる

そんな中、父・伊達晴宗が隠居したため、伊達輝宗は1564年に20歳で家督を継ぎます。

その頃から、天文の乱で祖父・伊達稙宗方につきその後独立した蘆名盛氏と戦いますが、1566年に和睦を結びます。蘆名氏は伊達氏と並ぶ南東北の有力大名となっていたため、この和睦によって先ずは目先の課題を解決させました。

しかし、当時の伊達家は、家臣の中野宗時・牧野久仲父子に実権を握られており、相変わらず家中が乱れていました。

そこで、伊達輝宗は1570年に中野父子に謀反の疑いがあるとして攻め込み、追放します。この際、彼らの追放に非協力的であったとして小梁川盛宗らの旧勢力も処罰し、これにより伊達輝宗が権力を掌握します。

その後、鬼庭良直・遠藤基信らを抜擢して新たな政治体制を整備しました。この頃から幅広い外交活動を開始し、織田信長・北条氏政・柴田勝家らとの友好関係を構築しました。

新発田の乱・対相馬氏との戦い

1578年、上杉謙信が死去、その後継を巡って御館の乱が発生します。

伊達輝宗が参陣した上杉景虎方は、新発田長敦・新発田重家兄弟の奮闘に阻まれて敗戦します。しかし、戦後新発田重家がその功労を評価されなかったことを不服として、御館の乱の勝者・上杉景勝に反旗を翻し、新発田の乱が発生します。

これを受けて、伊達輝宗は蘆名氏と共に新発田重家を支援します。上杉家中の一連の紛争をチャンスと見た伊達輝宗は、柴田勝家と協力して越後への介入を続け、勢力拡大を図ったのでした。結果、新発田の乱は7年にも及ぶ長期戦となり、泥沼化します。

同じ頃、対相馬氏との戦いにおいては、相馬盛胤・相馬義胤父子に阻まれ、戦局は硬直していました。しかし、1579年に田村清顕の娘・愛姫を嫡男・伊達政宗の正妻として迎え、田村・伊達連合を成立させたことで、相馬氏の勢力は揺らぎます。

こうして、1583年には天文の乱の後、長きに渡り相馬氏に奪われていた丸森城を奪還し、続く1584年には金山城も攻略すると、伊達輝宗は南東北全域に勢力圏を拡大させることとなりました。

嫡男・伊達政宗に後を託す

1584年10月、伊達輝宗は隠居して嫡男・伊達政宗に家督を譲ります。

その翌年の1585年、伊達政宗は舅・田村清顕の要求により、田村氏から独立した小浜城主の大内定綱に対し、田村氏の傘下に戻るよう命じます。

しかし、大内定綱はこれを拒否、伊達政宗は激怒して大内氏討伐を開始します。大氏定綱は蘆名氏へとりなしを頼みますが、伊達政宗は突如蘆名領への侵攻も開始します。(関柴合戦)

伊達輝宗の時代においては友好関係を保っていた蘆名氏でしたが、当主交替後は伊達家に対する不満が高まっていたこともその背景にあったと言われています。

結局、関柴合戦に失敗した伊達政宗は、次の標的を大内定綱とその姻戚である畠山義継へと向けます。10月には畠山義継を降伏させ調停を結ぶこととなりますが、所領を大幅に削減するなど、厳しい条件を突きつけました。

畠山義継は、調停に謝意を示すために宮森城に滞在していた伊達輝宗を訪れます。しかし、城門まで伊達輝宗が見送りに来た所で態度を急変させて刃を突き立て、自身の居城・二本松城へと拉致しようとします。

この一報を受けた伊達政宗は、阿武隈川河畔の安達郡平石村周辺で畠山義継に追いつき、銃撃戦となります。この時、畠山義継をはじめとする二本松勢は全員が死亡しますが、捕らえられていた伊達輝宗も流れ弾にあたり死去しました。42歳でした。

伊達輝宗の人柄・人物像

伊達輝宗の人柄や人物像について説明します。

教育熱心な父親

伊達輝宗は、伊達政宗に非常に熱心な教育を施した子煩悩な人物でした。

その子煩悩さは生まれた時から発揮されており、産室は穢れであるとして男が立ち入ることは常識的に考えられなかった時代において、伊達輝宗は産室に入り、生まれたばかりの伊達政宗と対面しています。

身分が低かった片倉景綱をはじめ、屋代景頼らの優秀な家臣達を伊達政宗直臣として付けたのも、気が弱かった伊達政宗に、気の許せる友人を作ってあげたかったからだとも言われています。

伊達政宗は幼い時に病を受けて隻眼になってしまいますが、それでも伊達輝宗は諦めず、熱心な教育を施しています。1572年には甲斐国より虎哉宗乙禅師を招いて教育に当たらせ、他にも儒学者や僧侶を米沢城に招き、高等な教育を施しました。

家督を譲った直後、伊達政宗はこれまで伊達輝宗が進めてきた周辺諸侯との平和を重んじる方針を一変させ、強硬政策へと踏み切りますが、それでも息子を尊重し、彼の政治にあまり口を出しませんでした。

そんな父・伊達輝宗を、伊達政宗も生涯敬愛していたと言われています。

部下からも慕われる温厚さ

温厚で平和を好み、お人好しとも呼ばれた人柄であったと言われており、蘆名盛隆が田村氏の今泉城を侵攻して田村清顕と争ったときなど、東北の武将間における紛争の調停役を何度も買って出ています。

1584年にはこの蘆名盛隆が男色関係のもつれから殺害されたために、生後一ヶ月で蘆名氏の当主となった嫡男・亀王丸の後見人を務めており、そのお人好しぶりが伺えます。

この温厚さは配下の者達に対しても同様であり、伊達輝宗は家柄や身分を問わずに有能な者を多く採用しました。伊達家を牛耳った中野氏の家臣であった遠藤基信や、伊達政宗の近習で身分の低かった片倉景綱はその代表格と言えます。恩義を感じた部下達は、非常に暑い忠義心を持って伊達輝宗に仕えました。

伊達輝宗が殺害されたあと、遠藤基信はじめ家中で殉死が相次いでしまい、法度を出してこれを禁止した程、伊達輝宗は人望の厚い武将でした。

伊達輝宗の名言・エピソード

伊達輝宗の名言やエピソードについて解説します。

宮森城での最期

畠山義継に裏切られて拉致された伊達輝宗ですが、息子・伊達政宗がその救出に駆けつけたとき、

「わしを気にして伊達家の恥を晒すな。わし共々此奴らを撃て」と叫びました。

この父の叫びに覚悟を決めた伊達政宗は、一斉射撃を開始して畠山勢を討ち取りました。

織田信長・柴田勝家との関係

当主となってからその外交手腕を発揮した伊達輝元は、1573年には織田信長に鷹を送っています。

その際、信長からの返礼の手紙には、「送られた鷹は非常に素晴らしく、鷹専用の小屋を作り大切に飼います」「希有之至、歓悦不斜候」と記されており、非常に友好な関係を構築していたことが伺えます。

柴田勝家とも懇意であり、頻繁に書簡や進物のやりとりをした記録が残っています。1578年には、この友好関係を活用して、織田信長の要請で柴田勝家とともに上杉に侵攻しています。

柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に破れた際は、「秀吉の勢力が東国に及ぶ事態になったら、奥羽の諸大名を糾合してこれに対抗する」と書状に書き残しており、伊達輝宗が柴田勝家の死を非常に悼んだことと同時に、この時すでに奥羽の諸大名をまとめ上げる力を有していたことがわかります。

フィクションにおける伊達輝宗

フィクションにおける伊達輝宗を解説します。

信長の野望における伊達輝宗

シリーズによっても異なりますが、伊達輝宗のステータスは、統率71、武勇60、知略51、政治78となっています。息子の伊達政宗と比較すると、その数値はかなり低くなっています。

ドラマにおける伊達輝宗

1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』では、俳優の北大路欣也さんが演じています。

史実同様、誰よりも伊達政宗の才能を信じ、失明した彼を案じる周囲をよそに英才教育を施し、伊達家当主として家臣・領民を束ねる将としての心得を説き、また家臣の面倒見も良い人物として描かれています。

家督を譲った際は、自分の優しすぎる性格に武将としての限界を感じた様子が描かれました。

伊達輝宗は東北の繁栄の基礎を築いた人望高き武将だった

天文の乱による伊達家の急激な衰退から、一代で南東北全域を掌握するまで再興させた伊達輝宗の功績は、非常に大きいものです。

それは、同じように家中争いからそのまま衰退してしまった上杉氏と比べても、簡単に成し遂げられることではないことが分かります。

有能な人材を採用し、周辺・中央の諸将とも友好な外交関係を構築したことは、伊達輝宗の温厚さ・人望の厚さの賜物です。彼の活躍なしではその後の嫡男・伊達政宗の活躍もなかったと言え、まさに東北繁栄の基礎を築いた立役者であると言えるでしょう。