伊達成実は独眼竜伊達政宗を支えた名将!兜についた毛虫の意味とは?

伊達成実は独眼竜で知られる伊達政宗に仕えた武将で、持ち前の負けん気と文武における才能を発揮し、伊達家に降りかかる数々の合戦で活躍した武将です。

この記事では伊達成実の生涯を年表付きで分かりやすく説明していきます。伊達成実がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、フィクションに置ける伊達成実など、様々な視点から解説していきます。

伊達成実(だてしげざね)の基本情報

伊達成実(だてしげざね)は陸奥国出身の戦国武将で、伊達政宗の重臣として数々の戦いで活躍した人物です。また、亘理城の城主となってからは所領の開発と復興に力を注ぎ、亘理伊達藩初代藩主として末代にまで残る伊達家の礎を築き上げました。

伊達成実の人生

できごと

生誕から伊達政宗を支える若武者へ

1568年、大森城主の伊達実元の嫡男として誕生します。伊達実元は伊達家十四代当主伊達稙宗の五男で伊達一門の家柄となります。伊達政宗の一歳年下として生まれた為、兄のように慕い、当時より期待されて育てられました。幼少期の頃は時宗の僧侶である了山和尚を師として学問を学び、荒川秀秋から兵法を学んだとされ、英才教育を受けていました。

1583年には父実元の跡を継いで大森城主の当主となり、若き当主として期待されました。1584年には伊達家の家督は輝宗から政宗へと受け継がれ、実質の二頭体制で伊達家は動いていきます。しかし、輝宗が続けていた近隣諸国との協調政治が政宗に代わって強行姿勢に変わってしまったことにより、周囲の反発を招いてしまいます。政宗が家督を継いだ同年の1584年に輝宗が二本松城主の畠山義継に攫われる事件が発生し、この事件で伊達輝宗は不慮の死を遂げてしまいました。

輝宗を失った伊達家は政宗や伊達成美を筆頭に急速な若返りを遂げていきます。

奥州の覇権争い

輝宗が死去した後の伊達家は、近隣諸国から厳しい目線を向けられることになりながらも奥州の要となる会津を取るために蘆名氏・二本松氏を攻めます。1585年に父輝宗の弔い合戦として二本松城を攻めた人取橋の戦いが起きますが、二本松氏救援のため立ち上がった佐竹義重が伊達家の前に立ちはだかり、兵力差で劣勢を強いられた伊達家は敗走し、伊達政宗も矢一筋に銃弾五発を受ける激戦となりました。この戦いで伊達成美は500の軍勢を率いて敵の動きを止め、政宗を本宮城に逃す活躍を見せます。その後は佐竹家が急遽撤退をすることになり、伊達家最大のピンチは事なきを得ることが出来ました。

その後の伊達成美は1589年の摺上原の戦いなど数々の戦で武功を立て、名実ともに伊達家の重臣に成長します。豊臣政権下に下ってからの伊達家は領地替えをされ、それに伴い伊達成美も角田城主へと代わっています。1592年には文禄の役で朝鮮に従軍し、帰国後は政宗と共に京伏見の伊達屋敷に駐在しました。

突然の出奔、帰参後の大活躍

伏見に駐在していた伊達成美は突如として伊達家を出奔してしまいます。城主であった角田城も摂取され、それに反抗した伊達成美の家臣団が討ち死するという悲劇も重なり、勇猛を誇った家臣団は解体されてしまいました。

しかし、1600年に関ヶ原の戦いが起こると伊達家の重臣片倉景綱などの説得により帰参することになります。帰参した伊達成美は石川昭光の軍に加わり白石城攻めに参加しました。関ヶ原の戦い後の1603年には白石城に移った片倉景綱の代わりに亘理城の城主となります。復帰した後の伊達成美は伊達家の外交官的立ち位置で徳川家との関係性を深めるなど一躍を担いました。

またその後の伊達成美は自領の開発も積極的に行い、特に治水などの農政改革に務めた結果、6000石を23000石へと成長させ、伊達家中随一の領地に発展させました。このお陰で江戸時代の仙台藩は天下の米どころとして知られることになり、後世に残る仙台藩の礎を築いたのでした。

1646年、伊達政宗の死から遅れること10年で79歳の生涯を閉じました。伊達成美には世継ぎに恵まれなかったことから実子が残っておらず、伊達政宗の9男である宗美を養子とし、伊達家は末代まで存続していくことになります。

伊達成美の人柄・人物像

伊達成美の人柄や人物像について解説していきます。

時には政宗にも意見する実直者

伊達成美は文武にその才能を持った伊達家随一の人物でしたが、性格も非常に真っ直ぐな人物だったようです。1590年に豊臣秀吉から小田原直参を要求され困った伊達政宗は家臣達に相談を持ちかけます。片倉景綱ら重臣はもはや行くしかないと意見を述べますが、伊達成美だけは豊臣秀吉に徹底抗戦という意思を貫き、結果として政宗の留守を守るため黒川城に残ったとされています。

人取橋の戦いでも味方が総崩れとなる中、わずか500の兵で大軍に立ち向かい、主君を逃す武功を立てるなど、18歳の若武者ながら大変肝が据わっていた人物であったことが分かります。また政宗を兄のように慕った一方で、悪いと思った際には容赦無く叱りつけるなど、伊達成美の実直さが分かる逸話もいくつか残されています。

政宗との仲は良好で出奔から復帰後も政宗から伊達成美に宛てた手紙などが見つかっており、中身は「最近会っていなかったから、用はないけど手紙を書いた」というように気心を知れた仲であったことが伺えます。

徳川家光をも感嘆させる

晩年の伊達成美は若き頃の戦場での活躍もさながら、内政面でも巧みな手腕を発揮し、自領であった亘理の地を開発・復興させ、徳川幕府となった太平の世でも名将として人々の尊敬を集める存在となりました。

また豊臣政権後の徳川の世での伊達家の影響力は非常に大きく、家康自身も抜け駆けをさせないため、常に一目を置いた一族でした。そのため、徳川三代将軍の家光も臣下となった伊達成美に尊敬の念を抱いていたとされており、若き日の戦話を聞いた家光は「奥州武士の勇猛さ、あっぱれである」と感嘆し、褒美を与えたと言います。

晩年の伊達成美は政宗や家臣を含め、多くの人々から敬意を集める人物となっていました。

伊達成美の名言・エピソード

伊達成美の名言・エピソードについて解説していきます。

兜の前立ては毛虫

伊達成美が身につけていた兜には毛虫をかたどった前立てがついていました。この意味は毛虫は習性として後ろに後退することがないことから、それにあやかって「決して後ろには退かない」という意思でつけていたとされています。

この毛虫の前立ての通り、戦場においての伊達成美は度重なるピンチの状況でも退くことはなく、幾つもの戦いを潜り抜けてきました。政宗からの信頼も非常に厚く、主君のために命を掛けて盾となる姿を「干城」と政宗は評しました。

出奔の理由とは?

伏見に滞在していた時に伊達成美は突如出奔しますが、その理由は定かではなく、いくつか説が残っています。1つ目は非常に優れた能力を持っていた伊達成美に上杉景勝から仕官の誘いがあったという説で5万石もの高待遇でオーファーが出されたというものです。

もう一つの説は他家臣と比較して自らの地位が軽く扱われたと感じ主君への反抗の意味で出奔したとされています。これは石川昭光(伊達晴宗の四男の家系で伊達政宗と敵対していた)という豊臣秀吉の奥州仕置で大名では無くなってしまった人物を、伊達家の家臣として迎え入れる際に伊達姓を与えて伊達成美よりも上席の位置に配置しようとしたことが原因とも言われています。しかし、結果として伊達成美の反対にあった政宗は、伊達姓を与えることはせずに伊達成美に謝罪しています。

フィクションにおける伊達成美

フィクションにおける伊達成美を解説していきます。

信長の野望における伊達成美

信長の野望シリーズでの伊達成美は各シリーズで能力値は異なりますが、総じて武力の方が評価された能力値となっています。統率84,武勇91,知略68,政治55と非常に使いやすい武将ではありますが、実際の伊達成美は知略や政治手腕にも非常に長けた人物でした。

ドラマにおける伊達成美

1987年に伊達政宗を主人公とした大河ドラマ「独眼竜政宗」に伊達成美が登場しています。このドラマでは俳優の三浦友和さんが伊達成美役を演じられており、勇猛かつ豪快な武将として政宗役の渡辺謙さんを支え、二人の熱い絆を観ることができます。

伊達成美は後世に残る伊達家の基礎を築いた立役者

伊達成美は実直かつ勇敢な性格で幾度の難局でも決して退くことなく前に進み続けた武将でした。

奥州の名門伊達家の躍進は彼の力なしには成し遂げられたかったと言われる名将として評価されています。その存在感は伊達政宗に並ぶ伊達家の代表人物と言えるでしょう。