別所長治は三木城に立て籠もり豊臣秀吉と壮絶に戦った!立派な辞世の句とは?

別所長治は織田氏や毛利氏に仕えた武将で、播磨国を治めていた武将です。三木城に2年近く籠城して、豊臣秀吉と戦った「三木合戦」の壮絶さは現代にも語り継がれています。

この記事では別所長治の生涯を年表付きで分りやすく解説します別所長治がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける別所長治など、様々な視点から解説していきます。

別所長治の基本情報

別所長治は播磨出身の戦国時代から安土桃山時代に生きた武将です。

室町時代中期から代々東播磨を統治していた別所氏の家に生まれ、当初は織田信長に従いますが、後に離反しました。

別所長治の人生(年表付き)

できごと

若くして当主となる

別所長治は、1558年に別所安治の子として生まれます。別所氏は東播磨に勢力を張っていましたが、織田信長が畿内へ勢力を伸ばしてくると別所安治もそれに通じ、要請に応じて兵の派遣などを行うようになります。父・別所安治は1570年に死去、これにより別所長治が若くして家督を継ぎます。

別所長治は1575年に織田信長に謁見、1577年に織田信長が紀州征伐に出陣した際も、別所長治は加勢しています。別所長治の「長」という字は織田信長から貰い受けたともいわれ、当初は織田方と良好な関係を築いていたことがわかります。

織田信長からの離反

織田信長は中国攻めを行う際、別所長治をその先導役として期待していました。しかし織田方に不満を持った別所長治はそこから離反します。離反の理由は諸説ありますが、1577年11月に起こった第1次上月城の戦いにおいて、城を落とした豊臣秀吉が、降伏した城兵を許さずことごとく首をはね、城内の女子供をも処刑したことに義憤したこと、婚姻関係にあった丹波の波多野氏が織田方から離反したことなどがあげられています。これにより別所長治は毛利氏側につくことになります。

1578年2月、別所長治は三木城に籠城をしながら毛利氏の援軍を待つことになり、三木合戦が開始されます。

2年にわたる籠城戦

1578年3月、豊臣秀吉が三木城の包囲を開始します。三木城は周辺を川と山に囲まれた天然の要害であったため、通常に攻め落とすことは困難と判断した豊臣秀吉は、三木城の包囲をしつつその周辺の支城である上月城、淡河城、八上城などの攻略をしていき、三木城への兵糧の補給経路を切断していきます。これによって三木城は孤立していき、兵糧の調達が難しくなります。このままでは兵糧不足に陥ることは明らかであるため、別所方は城外に打って出ますが、敗れてしまいます。また、毛利氏により兵糧を城に運び込む作戦が実行されますが、これも失敗に終わります。三木城内の兵糧は底をつき、1580年1月14日に豊臣方からの勧告により、城主一族が切腹することで城兵の命は助けるという条件が出されます。17日に別所長治はこれを受け入れ、妻子とともに自害し、2年近くに渡った籠城戦に終止符を打ちました。

別所長治の人柄・人物像

別所長治の人柄や人物像についてまとめます。

名門の家柄

別所長治の祖先は、室町時代に守護大名として、室町幕府の中枢を担った赤松氏です。赤松氏は室町幕府において「四職」として、軍事・警察、徴税などの業務を司り、さらに遡ると村上源氏であるといわれます。別所氏は応仁の乱頃に赤松氏から独立して三木城を築き、100年近くにわたり東播磨に強い影響力を持っていました。別所長治が織田信長から離反した理由のひとつに、中国攻めの指揮官が成り上がりの豊臣秀吉であることに別所長治が不満を感じたこともあげられています。

辞世の句

今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもえば

別所長治が自害の際に詠んだ辞世の句で、現在公園として整備されている三木城跡にもこの歌が刻まれた歌碑が立っています。

自らの命と引き換えに、多くの領民たちの命を守るという強い決心があらわれた歌です。そしてその運命を恨むことなく、誇りをもって死に臨んだ様子が感じられます。

別所長治の名言・エピソード

別所長治の名言・エピソードについて解説します。

豊臣秀吉による、過酷な「三木の干殺し」

豊臣秀吉による「三木の干殺し」は、「鳥取の飢え殺し」と「高松城の水攻め」と並び、秀吉三大城攻めと呼ばれます。1578年、織田信長に反旗を翻した別所長治は三木城に籠城します。そこには織田信長に不満をもつ多くの周辺勢力が同調し、東播磨一帯から国人衆や一向宗の門徒、その家族などが集まり、約7500人が三木城に籠城することとなりました。長期間の籠城戦のなかで城内は徐々につきていき、草や藁、牛馬、鼠、果ては死人の肉をも食したというほどの生き地獄の様相を呈したといわれています。この状況を見かねた別所長治は、自らが自害すること引き換えに、2年近くに渡った籠城戦に終止符をうち開城、城兵たちの命を助けました。

今もなお愛される名君主

現在、三木城では毎年5月に「別所公春まつり」が開催され、自らを犠牲にして領民を守った別所長治をたたえています。また、三木城内に立地する雲龍寺は別所長治が妻とともに自害した地とされ、首塚がまつられています。ここでは毎年、開城された1月17日に「別所長春公祥月命日法要」が営まれ、飢餓に喘いだ城兵が藁を食べたという当時の惨状を忍んで、うどんをふるまうという行事が開催されています。

三木城跡には辞世の歌碑や別所長治の騎馬武者石像が立てられており、別所長治が現在も地元の人々にとってたたえられる存在であることがわかります。

フィクションにおける別所長治

フィクションにおける別所長治を解説します。

信長の野望における別所長治

シリーズにもよりますがステータスは、統率80、武勇67、知略64、政治58となっています。全体的に高い数値ではありませんが、統率だけは高めの水準になっています。

ドラマ、小説などにおける別所長治

別所長治を主題にしたドラマは、今のところありません。しかし三木合戦の豊臣方においては、かの天才軍師といわれた竹中半兵衛が参戦しており、この戦の最中に病に倒れ陣中で死去しています。竹中半兵衛を扱ったドラマは多数あり、その中では別所長治もしばしば敵役として登場します。近年では、2014年の大河ドラマの「軍師官兵衛」で別所長治は登場しており、若手俳優の入江甚儀さんが演じています。また、小説においては司馬遼太郎さんをはじめ、題材にした作品がいくつかあり、三木合戦の悲哀とともにその生涯が語られています。

別所長治は正義感の強い城主だった

別所長治は領民の命を救うために、自らの命を犠牲にする道を選びました。辞世の句からは誇らしく、堂々と死に臨んだ様子が読み取れます、また、豊臣秀吉がが上月城の城兵を虐殺した際はそれに憤慨するなど、正義感の強い人物であったことが感じられます。

別所長治が現在も地域の人々に愛されているのは、その様な人柄によるところが大きいのかもしれません。