馬場信春は武田信玄の忠臣で不死身と恐れられた!築城は山本勘助から学ぶ

馬場信春は武田四天王の一人に数えられ、生涯武田家に仕えた武将です。「不死身の馬場美濃」の異名を持ち、歴戦の強者として数々の武功をあげ、その名を残しています。

この記事では馬場信春の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。馬場信春がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける馬場信春など、様々な視点から解説していきます。

馬場信春の基本情報

馬場信春(ばばのぶはる)は甲斐国出身で戦国時代を生きた武将です。

武田信虎からその子・武田信玄、さらにその子の武田勝頼と3代に渡って仕えました。

馬場信春の人生(年表付き)

できごと

馬場氏を承継するまで

1515年、甲斐国教来石の土豪・教来石信保の子として誕生します。教来石氏は、甲斐・信濃の国境付近を守る武川衆の一員であり、この頃はまだ武田家の家臣ではなく、配下の豪族という立場にすぎませんでした。

17歳の頃、諏訪頼満が甲斐へ侵攻してくると、馬場信春(この頃は教来石景政と名乗る)は武田軍に加わって武功を挙げ、これによって武田信虎直轄の親衛隊に抜擢されます。

1536年には、武田信玄の初陣でもある、武田信虎の佐久侵攻の一環・海ノ口城攻めにも参戦し、武田軍が奇襲攻撃によって落城させます。この時、馬場信春は敵方の大将であった平賀玄信を討取るという大手柄を挙げます。

しかし、1541年、元々人望のなかった当主・武田信虎が、嫡男・武田信玄とその一派によって追放される事件が起こります。馬場信春も、この武田信玄を支持していたとされています。そして武田家の当主が武田信玄に変わると、馬場信春は益々取り立てられ、活躍していくこととなります。

1541年から開始された諏訪・伊那攻めに参戦した馬場信春は、ここでも上原城の戦い・桑原城の戦いと連戦して武功を挙げて諏訪氏を滅亡させ、武田家の勝利に貢献します。

その功労として、武田信虎と仲違いし後継が途絶えていた武田家名門の譜代・馬場氏を継ぐことを許され、教来石景政から馬場信春へと改名、さらに50騎を統率する侍大将に任命されます。

譜代家老衆への出世

1547年から開始された信濃侵攻にも従ってここでも大いに奮闘し、1550年には信濃国小笠原氏の拠点・林城を攻略、1553年には武田氏の宿敵・村上氏の居城葛尾城を攻略します。

1561年の第4次川中島の戦いでは、山本勘助発案の「キツツキ戦法」において、上杉軍を背後から攻撃する別働隊の隊長を務めます。しかしこの背後からの襲撃計画は事前に敵方に知られてしまい、思ったような戦果を残すことは出来ませんでした。それでもなんとか敗北を避け、引き分けに持ち込みます。

そしてこれらの活躍によって、120騎持に加増されて譜代家老衆に列し、さらに美濃守を名乗ることを許されました。

駿河侵攻・西上作戦

1568年に武田信玄が対北条氏の駿河侵攻を開始すると、馬場信春は戦国時代最大規模の山岳戦として知られる三増峠の戦いにおいて先鋒を務め、激戦の末これを制します。

1572年頃から対織田信長包囲網を築き始めていた武田信玄は、近江・越前を目指して西へ攻めていく「西上作戦」を開始します。

そして12月22日、織田氏と同盟関係にあった徳川家康の間で三方ヶ原の戦いが勃発します。馬場信春はこの戦いで徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げます。この時、徳川家康は武田軍の強さに恐怖し、馬上で脱糞しながら、命からがら敗走したという話が残っています。

武田信玄の死去と長篠の戦い

翌年の1573年、武田信玄の急死によりその跡を嫡男・武田勝頼が継ぎ、58歳になっていた馬場信春は、重臣筆頭としてその補佐を務めます。父の死後も美濃や遠江への侵攻を続け織田・徳川の支城を落とし勢いに乗っていた武田勝頼は、次なる標的を三河の長篠城を守る奥平信昌に定めます。

奥平軍に織田・徳川の援軍が付き、鉄砲隊の配備もされていることから苦戦が強いられると察知した馬場信春は、「ここはひとまず退却し、信濃まで追撃させて、そこで討ちましょう」と進言しますが、武田勝頼はこれを拒否します。こうして1575年に長篠の戦いが勃発すると、武田軍は織田軍の鉄砲隊により次々と打ち倒されていきます。

馬場信春は、武田軍の5番手として750騎を率いて突撃します。ここでも勇敢に戦いましたが、武田軍不利の状況は変わらず、武田勝頼を退却させます。馬場信春は武田勝頼を討ち取ろうとする敵軍を食い止めるために戦場に残り奮闘しますが、ついに戦死しました。

馬場信春の人柄・人物像

馬場信春の人柄や人物像について説明します。

主君・武田信玄と部下からの評価

馬場信春は、元は武田家配下の一豪族に過ぎなかったにも関わらず、武田信玄の下で譜代家老衆へと大出世を果たしています。武田信玄は馬場信春を「一国の主の器である」と、その武勇だけでなく人柄も大いに評価していました。

1568年、駿河侵攻中の武田信玄は、今川館(今川氏本拠地)に攻め入り、当主・今川氏真を敗走させます。

ここで武田信玄が今川氏の蓄えた財宝を持ち運ぶように家来達に命じたところ、馬場信春は「戦中に敵の財宝を奪うなど恥ずかしいことで、武田氏が後世の笑い者になってしまう」をこれを制止させます。これを聞いた武田信玄は「最もである」と反省し馬場信春に感謝したと言われています。

また、徳川家康との三方ヶ原の戦いの後には、「三河武士は皆、武田の方を向かって倒れていて、逃げ出そうとする者は一人もいなかった」と敗者を褒め称えたとされます。

このように、馬場信春は冷静沈着で真面目な性格の人格者であり、同僚や配下達からの人望も非常に厚かったと言われています。

敵からも賞賛される勇猛ぶり 武士の憧れ

『信長公記』において、長篠の戦いにおける馬場信春の様子を「馬場美濃守、手前の働き比類なし」と記されており、敵将ながらその勇猛果敢な戦いぶりが賞賛されています。

馬場信春の高名は武士達の間で憧れとなり、彼の残した娘たちを妻に迎えることは誉であるとも考えられたようです。馬場信春の娘の一人は、徳川家康の忠臣・鳥居元忠に嫁いでいます。三方ヶ原の戦いにおいて、武田軍・馬場信春の強さを身を以て痛感した徳川家康も、馬場信春を賞賛し、その子孫を江戸幕府において旗本に取り立てています。

馬場信春の名言・エピソード

馬場信春の名言やエピソードについて解説します。

馬場信春の2人の師匠 山本勘助と小幡虎盛

馬場信春は築城術を武田信玄軍師・山本勘助から伝授されたと言われ、彼が第4次川中島の戦いで戦死した後はその意志を継いで、自らの居城・牧之島城のほか、駿河の田中城・清水城、遠江の諏訪原城・小山城を築城します。

築城において武田信玄は、「大軍相手でも防衛でき、仮に攻略されても奪回しやすい城を築け」という厳しい要求をしましたが、山本勘助から高妙な築城術を受け継いだ馬場信春は、見事この要求に応えていきました。

一方、戦場における駆け引きや部隊の指揮については、武田家の勇将・小幡虎盛から伝授されたと言われています。

小幡虎盛は、若き馬場信春の才能にいち早く気づき、惜しげも無くその知識を伝授しました。こうして成長した馬場信春は、生涯で21度の戦攻を挙げ、数々の戦に参加していたにも関わらず、長篠の戦いで死去するまで、かすり傷ひとつ負わなかったと言われています。

このことから、後世「不死身の馬場美濃」の渾名がつけられました。

押し太鼓の「九字」

押し太鼓とは、戦場において前進や停止を全軍に伝えるための太鼓のことですが、馬場信春はこの改良を行いました。

前進の「寄」、敵を攻撃する「破」、部隊を急いで移動させる「急(急はさらに細分化して2種類有)」と隊列を正す「序(序はさらに細分化して3種類有)」と合計9の音にわけ、早く分かりやすい伝令方法を産み出しました。この九字の押し太鼓により、まさに「風林火山」と呼ぶにふさわしい、武田軍の素早い進軍や突撃、方向転換などを可能にしました。

フィクションにおける馬場信春

フィクションにおける馬場信春を解説します。

ゲームにおける馬場信春

シリーズによっても異なりますが、馬場信春のステータスは、統率86、武勇77、知略76、政治77となっています。120の騎馬隊を率いた侍大将として活躍した史実通り、全体的に高数値のバランスの良いステータスとなっています。

ドラマにおける馬場信春

武田信玄が登場するドラマにおいて度々登場しており、勇猛果敢に戦場で戦う猛将として描かれています。

2007年の大河ドラマ『風林火山』では、俳優の高橋和也さんが演じ、主人公の山本勘助より城取りの方法を学ぶ様子が描かれました。

馬場信春は不死身と恐れられた、忠義心の厚い武将の鏡だった

生涯70を超えると言われる戦に参加しその度に大きな武功を挙げ続けた馬場信春は、「最強の騎馬隊」と恐れられる武田家の繁栄をもたらした勇猛な武将でした。

その慎み深く真面目な性格と、武田信虎の時代から長篠の戦いにより武田家が滅亡するまでの長きに渡り武田家に仕え貢献した忠義心もあいまって、武・智・勇を揃え持った武将の鏡として、後世においても深く尊敬されました。特に、長篠の戦いにおいて負けを予感しながらも最期まで武田勝頼を守ろうとした姿は、強く胸を打つものがあります。