浅井長政はお市の方の夫で美男子だった?娘は浅井三姉妹として歴史に名を残す

浅井長政は近江国の戦国武将で、織田信長の妹・お市の方の夫として有名です。織田信長との同盟を破棄して対立し、姉川の戦いなどの激戦を繰り広げました。

この記事では浅井長政の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。浅井長政がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける浅井長政など、様々な視点から解説していきます。

浅井長政の基本情報

浅井長政(あざいながまさ)は近江国出身で、戦国時代を生きた武将です。

南近江守護・六角義賢に仕えましたが、後に浅井長政が勢力を逆転させ領土を拡大させました。

浅井長政の人生

できごと

父の追放と六角氏との争い

浅井長政は、1545年、浅井久政の嫡男として誕生します。

祖父・浅井亮政は、北近江の守護・京極氏の家臣であったところ、京極氏内で発生したお家騒動を機に、その実権を掌握した武勇に優れた人物でした。浅井亮政は隣国越前の朝倉家の支援を受け、浅井氏の戦国大名化を推し進めました。

こうして北近江を支配した浅井家ですが、その勢力を警戒した南近江の六角氏とは対立するようになり、浅井久政が当主となってからは六角氏の攻勢に押され、その配下に降ることとなっていました。

六角氏に完全に臣従の姿勢を示すことで領土を保持していた浅井久政は、幼い浅井長政とその母・小野殿を人質に出していたとも言われます。

また、六角氏当主・六角義賢は、浅井氏がその臣下であることを明確にするため、元服した浅井長政に「賢」の一字を与え、「よ賢政」と名乗らせた上、六角氏の家臣・平井定武の娘を正室に据えさせました。

このような浅井久政の弱腰な姿勢に、家臣達は不満を募らせており、1559年に浅井賢政を擁立してクーデターを発生させました。家臣団は浅井久政を強制的に隠居させ、浅井賢政が家督を相続し新たな当主に就任しました。

浅井賢政も「賢」の字を捨てて長政と名乗り、正室であった平井定武の娘を六角家に送り返すことで、六角氏からの離脱の姿勢を明確に示しました。

六角義賢はこれを受けて浅井氏に寝返った高野瀬秀の肥田城への攻撃を仕掛け、浅井長政もその救援のために進軍し、1560年に野良田の戦いとなります。数の上では不利であった浅井軍ですが、緒戦の勝利に油断していた六角軍の切り崩しに成功し、最終的に浅井長政がこの戦いを制しました。

これによって浅井長政は近江支配における浅井家の政治的立場を確立すると同時に、浅井長政の勇敢な戦いぶりを見た赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経ら重臣達の信頼を取り付けることに成功しました。

一方の六角氏は、この敗戦をもって勢力の衰退を迎えることとなります。

六角義賢は戦いの前年に家督を六角義治に譲っていましたが、敗戦を機に出家します。しかし六角義賢・六角義治父子は対立しており、1563年に六角義治が六角義賢からの信任厚かった家臣・後藤賢豊を殺害する観音寺騒動を発生させます。

後藤賢豊殺害により家臣団は六角義治に不信感を抱くようになり、離反して浅井家に走る者まで出るようになります。六角義治は美濃の斎藤氏と結んで浅井長政を討ち取ろうと画策していましたが、これも頓挫することとなりました。

同年、浅井長政が美濃へ遠征すると、その留守を狙って六角義治が北近江への侵攻を開始しますが、浅井長政は軍を反転させてこれを破り、六角氏の勢力は益々弱まりました。

織田信長との同盟

この頃、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り勢力を拡大させていた織田信長は、美濃国斎藤氏との攻防戦を繰り広げており、一進一退の様相を呈していました。

この膠着状態を打破するため、不破光治を使者として北近江に送り、浅井家に同盟締結を持ちかけるようになります。

この同盟に対して浅井家では意見が分かれます。反対派の最大の理由は、長年同盟関係にある朝倉氏(朝倉義景)と織田信長の不仲でした。

名門・朝倉家に生まれた朝倉義景は、成り上がり者の織田信長を良く思っておらず、織田信長からの上洛命令も無視し続けており、両者の不仲は第三者から見ても明らかなものでありました。

隠居させられていたとは言え、未だその発言力を保持していた浅井久政もこの同盟には大反対でありましたが、最終的には、六角氏への対抗のため、そして同盟の条件が浅井家に非常に有利であり「朝倉への不戦」も条件となっていたことから織田氏との同盟を結ぶことが決定されました。

こうして1567年(諸説有)に織田信長の同母妹・お市の方が同盟の印として小谷城に入り浅井長政の正室となります。2人の間には、1573年までの間に茶々・初・江の三姉妹が生まれました。

こうして同盟を結んだ織田信長は近江を足ががかりに美濃攻略を進め、1567年には稲葉山城の戦いで勝利し、斎藤氏を滅亡させることに成功しました。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、三好三人衆と通じてこれに反対する六角義賢が挙兵し、観音寺の戦いとなります。浅井長政も長年の敵を討ち取ろうと織田軍として参陣し、この戦いに勝利します。

本拠地観音寺を失った六角氏は甲賀郡に撤退して戦国大名としての地位は没落し、その後も織田信長に抵抗を続けますが、いずれも小規模な戦いで終わっています。

同盟の破綻と浅井・朝倉連合軍による戦い

斎藤氏・六角氏を敗戦に追い込み、織田・浅井両家共に意義があった両家の同盟ですが、1570年4月、織田信長は同盟の条件であった「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と結び3万の大軍で越前国へと出陣します。(金ヶ崎の戦い)

義兄の裏切り行為により、織田氏つくか朝倉氏につくかの選択を迫られた浅井長政は、浅井久政の意見もあって朝倉氏への加勢を決定し、北近江から出陣します。その結果、浅井・朝倉連合軍に破れた織田信長は、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦を行い命からがら京都に帰還しました。

形勢を整えた織田信長は再び出陣し、同年6月に姉川の戦いとなります。

この戦いは、「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」(『信長記』)とも記される激戦となりますが、浅井・朝倉軍は敗北し、遠藤直経などの重臣が討死することとなりました。

敗北した浅井・朝倉軍でしたが、比叡山や石山本願寺勢と手を結び、織田信長への更なる抵抗を続けました。

8月には本願寺勢が挙兵して野田城・福島城の戦いとなり、この戦いに織田信長が釘付けとなった所を、浅井長政・朝倉義景が出陣、9月に志賀の陣を勃発させます。

この戦いは2ヶ月に渡る包囲戦の末に朝廷と足利義昭による仲介で講和となりますが、この戦いで浅井・朝倉軍に味方した比叡山は、1571年に焼き討ちに会い、数千を越す死者が発生してしまいました。

同年、織田信長と対立するようになっていた足利義昭は自ら御内書を下し始め、織田信長包囲網を形成していきます。その中心となったのは武田信玄であり、1572年に足利義昭の要請によって甲府を出立します。(西上作戦)

武田信玄はこの時浅井長政に「只今出馬候 この上は猶予なく行に及ぶべく候 」と書状を送っており、浅井長政が武田信玄と連携して織田信長を討とうとしていたことが分かります。

武田信玄は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いで織田軍を撃破していきますが、1573年に急死してしまい、同年7月には足利義昭も京都から追放され、織田信長包囲網は破綻していくこととなりました。

一乗谷の戦い・小谷城の戦い

1573年8月、織田信長は近江へと進軍すると、浅井長政は小谷城に籠城し、朝倉義景は2万の軍を率いて浅井長政救援に向かいます。

しかし朝倉義景の出陣には朝倉家内でも反対する者が多く、これを押し切っての戦いであったために意思疎通が不十分なうえ、織田軍は3万を越す大軍でああったこともあり、刀根坂など各地で敗戦・撤退を繰り返すこととなりました。

こうして浅井長政救援を諦め本拠地一乗谷に戻った朝倉義景ですが、この時手勢はわずか500人程になってしまっていたとも言われます。多勢に無勢となった朝倉義景は自刃して果て、小京都と評された一乗谷も焼き払われました。

織田信長は即刻近江へと兵を引き返し小谷城へと向かいます。小谷城を包囲した織田信長は不破光治や木下秀吉(後の豊臣秀吉)を使者として浅井長政に降伏を勧告しますが、浅井長政はこれを拒否し、ついに小谷城への総攻撃が決定します。

木下秀吉は夜間に浅井長政の籠る本丸と浅井久政の籠る小丸との間にある京極丸を攻め落とし、父子を結ぶ曲輪を分断させてそれぞれを孤立化させ、浅井久政は息子に先立ちここで自害します。

浅井長政はその後も奮闘して、小谷城本丸はしばらく持ちこたえますが、もはや形勢が逆転することはなく、浅井長政は9月1日に袖曲輪の赤尾屋敷内で自害し(享年29歳)、小谷城はついに落城しました。

浅井長政の人柄・人物像

浅井長政の人柄や人物像について説明します。

お市の方との夫婦仲

浅井長政は当時の男性の平均身長が160㎝ほどであったところ、180㎝を超す高身長で、見目優れた美男子であったと言われています。

お市の方も高身長の女性で、かつ戦国一と評されるほどの美女でありました。

浅井家中で反対意見の強かった2人の結婚ですが、浅井長政は心無い言葉からお市の方を守り、大変仲睦まじい夫婦であったと考えられています。

入嫁から間も無く長女・茶々を生んでおり、浅井家と織田家の間に亀裂が生じるようになってからも、お市の方を実家に戻すことなく、それどころか小谷城の戦いと同年の1573年には三女・江が誕生しています。

お市の方はここで最愛の夫と死別してしまいますが、その仇的である豊臣秀吉に対して生涯恨みを持ち続けたと言われます。

義理堅い性格

浅井長政は義理堅い武将と言われており、それは長年の同盟相手・朋友である朝倉氏に加勢して戦ったことからも伺えますが、その他にも彼の義理深さがわかるエピソードが存在します。

家臣に対しては、戦死した家臣の娘へ安堵状を送ったり、小谷城落城前には家臣に感謝状を送るなどしたと言われ、その武勇と人望をもって赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経といった浅井長政に心酔する重臣達を生み出しました。

また、浅井長政が15才の時、六角家家臣・平井定武の娘と結婚することを強要されますが、後に父を追い出して家督を継いでからは、すぐに彼女と離婚します。その結婚期間は1年もありませんでしたが、その間一切手を出さずに六角家に返しています。

その理由は、むりやり政略結婚させられた相手の娘に同情していたからではないかとも言われています。

後々離縁するつもりだったとはいえ、嫁に来た女性に一切手を出さないというのも、なかなか出来ることではなく、このことも浅井長政の義理堅い性格を表していると言えます。

浅井長政の名言・エピソード

浅井長政の名言やエピソードについて解説します。

織田信長との関係と薄濃(はくだび)

浅井長政と同盟を結んだ織田信長は、このことを非常に喜び、義理の弟としてとても大切に思っていました。

お市の方と結婚したときも、当時の風習として、夫側が結婚資金を準備するのがしきたりだった所を、織田信長自身が全額を負担したと言われています。

金ヶ崎の戦いで浅井長政が朝倉軍に加わったと報告を受けたときも、織田信長は当初「虚説たるべき」と取り合わず(『信長公記』)、いかに浅井長政を信頼していたかが分かります。

小谷城の戦いの後、宴席において朝倉義景、浅井久政と共にその頭蓋骨に薄濃(はくだび。漆塗りに金粉を施すこと)を施し、これを杯としたと言われています。(『信長公記』、『浅井三代記』)

これは後世の創作であるとも言われますが、一説では頭蓋骨に薄濃を施す行為は、死者を乏しめ笑い者にするための行為ではなく、反対に敵将への敬意を示すためのもので、天正年間への改正にあたり、清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を願うための行為だったとも言われます。

息子と娘たち

浅井長政の子供としては、お市の方との間に生まれた茶々・初・江の三姉妹が有名で、いずれも美男美女の父母の面影を受け継いだ美少女であったと言われます。

そして彼女達を母は違いますが、お市の方の入嫁以前に、側室との間に生まれていた嫡男・万福丸がいます。

小谷城落城寸前、浅井長政は最後の仕事として、万福丸に家臣を付けて城外へと逃し、三姉妹達は織田家との深い繋がりもあるので、彼女達の助命嘆願を行いお市の方と共に織田家家臣、藤掛永勝へと引き渡しました。

お市の方の娘である三姉妹達はその後織田信長より手厚い保護を受けますが、万福丸は執拗な追跡を受け、匿われていた越前駿河地方で木下秀吉の軍勢によって発見され、関ヶ原にて串刺しの刑に処されています。わずか10歳でありました。

嫡男・万福丸はこのように父と同じく悲劇的な最期を遂げますが、その血脈は徳川家の御台所となった三女・江によって引き継がれ、浅井長政の血筋は現在の皇室にまで繋がっています。

なお、庶女としては江の娘で豊臣秀頼の正室となった千姫の乳女・刑部卿局がいます。彼女は千姫の教育係でもあって、京風の作法を教えるなどしました。大坂の陣でも必死に千姫を守り、その命を助けたと言われています。

フィクションにおける浅井長政

フィクションにおける浅井長政を解説します。

信長の野望における浅井長政

シリーズによっても異なりますが、ゲーム信長の野望における浅井長政のステータスは、統率83、武勇82、知略72、政治52となっています。

武勇に優れた美男子として登場し、姉川の戦いなどで織田信長を苦戦させた史実通り、統率や武勇が高数値となっています。

ドラマにおける浅井長政

浅井長政は、お市の方の夫、浅井三姉妹の父として、特に小谷城の最期の様子を取り上げて大河ドラマなどに登場することも多くなっています。

2002年『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』では俳優の葛山信吾さんが演じ、2011年『江〜姫たちの戦国〜』では俳優の時任三郎さんが演じました。

『江〜姫たちの戦国〜』では、性格は温厚で何かと民衆のことを気遣う武将で、中々心を開かないお市の方に対しても素直な態度で接し、相思相愛の夫婦となっていく様子が描かれました。

苦渋の決断で織田信長と対立してからは幾度となく戦闘を繰り広げますがついに小谷城総攻撃を受け、最期はお市の方と三姉妹を逃してその命を助けました。

浅井長政は義兄・織田信長を苦戦させた義理堅い武将だった

浅井長政は幼い頃から武勇に優れ、六角氏に押されていた浅井家の勢力を取り戻し、家臣団からの信頼も得てその領土を拡大させた武将でした。

その武勇・人望は織田信長の目にもとまり、同盟を結んで多大なる信頼を寄せられました。義兄・織田信長とも友好な関係を構築していた浅井長政でしたが、長年の朋友・朝倉氏を見限ることは出来ず、ついに義兄に刃を向けることとなります。

「浅井長政が織田信長を裏切った」と言いますが、その前提として、最初に織田信長が浅井長政との「朝倉への不戦の誓い」を破ったことがあります。浅井長政にとって、金ヶ崎の戦いの出陣は苦慮の末の行為であったことでしょう。

金ヶ崎の戦いで九死に一生の経験をさせ、姉川の戦いでは川が血の色に染まるほどの激戦を繰り広げるなど、数年に渡り織田信長を苦戦させた浅井長政でしたが、29歳という若さで命を落とすことになりました。

お市の方や浅井三姉妹との小谷城での別れは大変悲劇的ですが、浅井長政の義理堅さや情の深さが伝わってくるエピソードでもあります。

浅井長政の人生は太く短いものでしたが、彼の血脈は娘達によって引き継がれ、徳川将軍、そして現在の皇室にまで繋がっており、その名将としての評価は、現在でも高くなっています。