足利義昭は「麒麟がくる」にも登場!明智光秀・豊臣秀吉との関係は?

足利義昭と言えば、織田信長に追放された愚かな将軍というイメージがありますが、実は優れた戦略家としての見方もあります。今回は足利義昭の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

足利義昭の基本情報

足利義昭の人生

できごと

僧侶から還俗する

足利義昭は、足利義晴(室町幕府第12代将軍)の次男として生まれました。足利義輝(13代将軍)は同母兄にあたります。当初、足利義昭には家督相続権がなかったため、1542年に仏門に入り、覚慶と名乗り、後に興福寺で権少僧都(僧を管理する職)まで出世しています。

1565年、兄で13代将軍:足利義輝が暗殺されるという事件が起こります(永禄の変)。この時、覚慶も幽閉され監視下に置かれますが、兄の側近の力を借り脱出に成功。1566年に覚慶は還俗(僧侶から俗人に戻ること)し、足利義秋と名乗っています。

足利義秋は、各地の大名に上洛を求めますが、応じる大名はいませんでした。多くの大名が隣国などと戦いや国内情勢の不安からそれどころではなかったようです。足利義秋も越前の朝倉義景を頼りますが、朝倉義景も動きませんでした。1568年、従兄弟にあたる足利義栄が14代将軍となったことで、足利義秋は焦ります。同年、足利義秋は「秋」の字が不吉であるとし、足利義昭に改名しています。

将軍に就任するも追放される

朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介で、足利義昭は織田信長を頼ります。1568年9月、織田信長は大軍で上洛。足利義栄が病死したため、10月に足利義昭は室町幕府第15代将軍に就任しました。しかし、翌年、織田信長が帰国すると、三好三人衆が巻き返しを図り、足利義昭の宿舎であった本圀寺を襲いました(本圀寺の変)。

この時は、味方の奮戦で足利義昭は無事でした。将軍となった足利義昭は織田信長に、副将軍や管領に就くように打診しますが、織田信長はこれを断っているのは有名な話です。足利義昭と織田信長の歳の差は3歳ですが、書状で織田信長を「御父」と宛名していたのも聞いたことがあると思います。

一方の織田信長の思惑は、室町幕府の配下に入るのを嫌ったとか、武力での天下統一を狙っており足利義昭を利用しただけとも言われています。思惑の違いから2人は対立することになります。織田信長に不満を持ち始めた足利義昭は、各地の大名に御内書と呼ばれる書状を送り、これは一般的に「信長包囲網」と言われています。

内容は「織田信長を討伐して、室町幕府復興に力を貸して欲しい」という感じでしょうか。当初は反信長勢力が優勢で足利義昭にとって有利な展開でしたが、織田信長は反勢力を確固撃破していきました。1573年4月、反信長勢力の中核だった武田信玄が病死したことで、情勢が変わり足利義昭は窮地に陥りました。

同年、足利義昭は京都から追放され、足利尊氏以降15代続いた室町幕府は滅亡しました。しかし、足利義昭は征夷大将軍であり続けたため、京都復帰の可能性も当時は考えられていました。

影響力は持ち続けた

京都追放後の足利義昭は、各地を転々としますが、1576年に毛利輝元の領国であった備後国鞆に移っています。以降の足利義昭の亡命政権を鞆幕府とも言われています。足利義昭は武力は持たないものの、各地の諸大名に反信長を呼び掛けているため、影響力はあったと思われています。

1582年に本能寺の変で織田信長が亡くなると、毛利輝元は豊臣秀吉に臣従。1585年に豊臣秀吉が関白に就任すると、「関白秀吉、将軍義昭」という状態が2年半続きました。1588年には将軍を辞任し、名を昌山(道休)と号し、朝廷から准三后の称号(待遇)も受けています。

晩年は、山城国槇島に1万石の領地を与えられ、豊臣秀吉の御伽衆にも加えられています。1597年に大坂で病死しています(享年:61歳)。

足利義昭の人柄・人物像

足利義昭の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

織田信長と対立したのは「ワガママ」が原因?

足利義昭と織田信長の対立は、どちらかと言えば織田信長が足利義昭の行動を制限するようにしたため、我慢できなくなった足利義昭が「信長包囲網」を形成したと見られがちです。1569年に、織田信長は殿中掟書というものを足利義昭に承認させています。この掟書の内容に足利義昭が我慢できなかったという訳です。(翌年にはさらに五箇条が追加されています)

しかし、織田信長がこの掟書を作ったのは、足利義昭がワガママだったために、その行動を諌めたという見方もあります。具体的に言うと、①名馬がいると、持ち主から奪おうとする ②欲しい刀を取り上げる ➂訴えを放置する ④寺社の領地を勝手に没収する ➄集めたお金を幕府のために使わない などです。

この足利義昭のやりたい放題の行動に、織田信長が突き付けた意見書が「殿中掟書」という訳です。内容をみると、織田信長が将軍:足利義昭の行動を制限しているようにも見えます。しかし、この条文は室町幕府の先例や規範に倣っているという見方もあります。ただ足利義昭がこの掟書を全面的に守った形跡がありませんので、両者の関係は微妙なものになっていきました。

かなりの戦略家だった?

足利義昭と言うと、織田信長に追放された愚かな将軍というイメージがありますが、実はかなりの戦略家です。「信長包囲網」については、先程書きましたが、京都を追放された後の1575年には、武田勝頼・上杉謙信・北条氏政に和睦を呼び掛けて、信長包囲網を再度形成しようとしています。

これは実現しませんでしたが、毛利輝元を上洛させるため、大友氏討伐を命じる御内書を島津氏や龍造寺氏に出しています。(毛利氏が上洛しないのは、背後を対立していた大友氏に攻められることを恐れていたと足利義昭は考えた)

後に上杉謙信と石山本願寺の和睦にも一枚かんでいたり、1577年に上杉謙信が手取川の戦いで織田軍を破ったことに乗じて、毛利家を動かして織田信長を倒そうとしていたとも言われています。しかし、翌年に上杉謙信が病死し、この計画も頓挫。

これを見ると、打倒信長への執念のようにも思えますが、戦略家としてはかなり大胆な構想を持っていたとも言えます。

足利義昭の名言・エピソード

足利義昭の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

豊臣秀吉とは仲良し?

豊臣秀吉と足利義昭が初めて会ったのは、1568年のことです。織田信長から足利義昭との取次役を命じられた豊臣秀吉でしたが、室町風の教養が全くなかったこともあり、非常に戸惑ったようです。しかし、そこは「人たらし」の異名をもつ豊臣秀吉。僧侶時代が長く女性との接点がなかった足利義昭に女性を紹介したり、興味を持ちそうな話題を提供したりして、仲良くなったとも言われています。

後に覇権を握った豊臣秀吉は足利義昭を呼び寄せ、自分を養子にしてくれるよう頼みますが、これは足利義昭が断ったとされています。(養子になると、豊臣秀吉が征夷大将軍になれる道が開けるから)

その後も、豊臣秀吉は島津氏との和睦の仲介を足利義昭に頼んでいたりと、2人の関係は良好のようにも見えます。果たして真相はどうだったのでしょうか?

本能寺の変の黒幕は「足利義昭」?

本能寺の変で明智光秀を動かした黒幕が、足利義昭だという説があります。確かに足利義昭と織田信長を仲介したのは明智光秀で、明智光秀も足利義昭に仕えていた時期もありました。足利義昭の打倒信長の執念は凄いものがありますので、動機については説明がつきます。

ただ、京都を追放されて力を失った足利義昭が仮に「信長を討て」と命令したとしても、織田家の重臣にまで出世した明智光秀が、これに従うことかというと疑問が残ります。本能寺の変については様々な説があるので、この議論は当分終わらないでしょうね。

フィクションにおける足利義昭

フィクションにおける足利義昭について、紹介したいと思います。

信長の野望における足利義昭

信長の野望における能力値ですが、統率:33、武勇:32、知略:82、政治:85、となっています。完全に文官タイプです。兄の足利義輝は「剣豪将軍」と呼ばれていたので、統率・武勇が高めです。兄弟正反対とも言えます。

ドラマにおける足利義昭

多くのドラマに足利義昭は登場しています。描かれ方は、「織田信長に追放された愚かな将軍」という形が多いように思えます。一度、足利義昭を視点に描いた作品を見てみたい気もします。

足利義昭は室町幕府の再興にこだわった

足利義昭は暗愚だというイメージがありますが、戦略家としては優秀な面もあります。しかし、合戦の経験がほぼないので、信長包囲網も「机上の空論」に終わってしまったようにも思えます。それを破った織田信長がそれだけ凄かったとも言えます。