浅野長政は頭脳明晰な豊臣家の五奉行!子孫は赤穂事件の浅野長矩

浅野長政は豊臣家五奉行のうちでも最大の領地をもった武将であり、その優れた頭脳を持って長きに渡り豊臣秀吉を支えた人物です。

この記事では浅野長政の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。浅野長政がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける浅野長政など、様々な視点から解説していきます。

浅野長政の基本情報

浅野長政(あさのながまさ)は尾張国出身で、戦国時代から江戸時代初期を生きた武将です。

織田信長の命で豊臣秀吉の与力となって以降、天下統一のために大いに貢献し、関ヶ原の戦いのあとは徳川家康に仕えました。

浅野長政の人生

できごと

織田信長の命で豊臣秀吉の与力となる

浅野長政は、1547年、尾張国宮後城主・安井重継の子として誕生します。しかし、安井重継は甥である蜂須賀正勝に家督を譲ることになり、安井家はこれにより蜂須賀家に吸収されてしまいます。

長男であった浅野長政は、子のいなかった叔父・浅野長勝の娘・ややの婿養子として、浅野家に入ることとなりました。浅野長勝は織田信長の弓衆を務めており、後に浅野家の家督を継いだ浅野長政も、織田信長に仕えることとなりました。

また、浅野家には同じく浅野長勝の養女となっていた、のちの豊臣秀吉正室となる寧々がおり、2人の間には幼い時から交流がありました。

1561年に2人が結婚すると、この血縁をもって織田信長より豊臣秀吉の与力となるよう命じられます。元々身分が低く血縁の薄い豊臣秀吉にとっては、浅野長政は貴重な存在でありました。

浅野長政は1573年に浅井長政との間に起こった小谷城攻めに豊臣秀吉に従って参戦して武功を挙げ、豊臣秀吉が小谷城主となると、浅野長政も近江国内に120石を与えられます。中国征伐にも同行し、前線部隊の隊長として奮闘しました。

本能寺の変後の1583年、その後継を巡って豊臣秀吉と対立した柴田勝家との間に賤ヶ岳の戦いが起こると、浅野長政はここでも武功を挙げます。一説では、武勇で知られた佐久間盛政を生捕にし、「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ自害しなかったのか」と苦言を呈したと言われています。

豊臣秀吉の元で活躍する

浅野長政は、賤ヶ岳の戦いの武功によって近江国・大津に2万3百石を与えられ、大津城を築城します。

翌1584年には京都奉行職に任命され、京都の治安維持に努め、後に豊臣家内で特に重要な実務を担当した五奉行に名を列ねるようになります。(五奉行の成立には諸説有りますが、1585年が通説となっています)浅野長政は五奉行の中で主に政務全般と司法部門を担当しており、非常に重要な役割を担いました。

また、東国の大名と良好な関係にあったことから豊臣秀吉が獲得した金山・銀山の管理も任されており、加えて諸大名との交渉役を任されることも多くなっていました。

戦の面では、1587年に九州平定でも活躍し、若狭国小浜に8万石を与えられ、国持ち大名へと出世を果たします。1590年からの小田原征伐にも参陣し、北条氏の支城である岩槻城を陥落させ、また水攻めで有名な忍城の戦いと連戦しています。

この忍城の戦いでは、当初石田三成が指揮をとり水攻めを行なっていますが、結局失敗に終わり、攻城戦の終盤や戦後処理は浅野長政が彼に代わって行なっています。

同年の奥州仕置でも実行役として中心的役割を担い、改易・減封もしくは所領安堵・新封の領土仕置を実行します。この時、伊達政宗を豊臣秀吉に恭順させたのも浅野長政の説得によるものでした。

陸奥国の武将・南部信直との関係も深め、奥州仕置後に葛西大崎一揆や1591年に九戸政実の乱が起きると、浅野長政は南部軍に10万人の援軍を派遣してこれらを制圧しています。

1593年からの朝鮮出兵にも従軍し、朝鮮へと渡っています。嫡男・浅野幸長と共にここでも武功を挙げ、帰国後に甲斐国甲府21万5千石を与えられて甲府城へと移っています。

関ヶ原の戦い前後

1598年に豊臣秀吉が死去すると、石田三成との対立が深まりますが、翌1599年に前田利長、同じく五奉行であった大野治長らと共に徳川家康暗殺計画の首謀者の一人として罪に問われたため、家督を嫡男・浅野幸長に譲った上で武蔵国府中へと隠居します。

1600年に関ヶ原の戦いが勃発すると、徳川家康を支持するも隠居中の身であることを理由に出陣せず、浅野幸長を東軍に参陣させるに止まります。浅野幸長は東軍の先鋒として岐阜城攻略や長束正家らを敗走させる手柄を立て、戦後は紀伊国和歌山37万石へと加増されました。

一方の浅野長政は徳川家康に近侍し、1605年には江戸城下へと移ります。1606年、徳川家康より隠居料として常陸国真壁に5万石を与えられ、晩年をこの地で過ごした後、1611年に65歳で死去しました。

浅野長政の人柄・人物像

浅野長政の人柄や人物像について説明します。

優れた才覚を持つ内政官

優れた才覚があり堅実な性格であった浅野長政は、豊臣秀吉にその頭脳を見込まれ、内政官としても活躍しその政治手腕を大いに発揮しています。

領地の支配においてもその才能は発揮されており、旧領の甲斐や播磨、晩年を過ごした常陸真壁では、庶民からもその人徳を慕われたと言います。特に、朝鮮出兵後に与えられた甲府は、当時武田家の旧臣達が未だ不穏な動きを見せていた難しい土地でした。

浅野長政は甲府城を築城、甲斐国の九筋二領にそれぞれ国奉行を配置し、郡内領や河内領においても支配機構を整えるなど、甲府支配の基盤を見事に完成させています。

しかし、浅野長政の内政官としての活躍において最も賞賛するべきなのは、1582年頃から実施された太閤検地です。浅野長政は、豊臣秀吉からの命を受けてその責任者を務めます。

この太閤検地は、中央政権が全国の石高を把握するための空前絶後の大規模な検地であり、豊臣秀吉の優れた功績として必ず挙げられるものですが、その成功を導いたのは浅野長政でありました。

京升と呼ばれる統一された大きさの升を使用することで測量単位を統一し、田畑の等級を「上・中・下・下々」と分類するなど、非常に高い正確性をもって全国の田畑が計測されました。

太閤検地により石高制が確立し、土地の権利関係も明確となり、これが基盤となって江戸幕府へと受け継がれていきます。

石田三成・徳川家康との関係

浅野長政と同じく若い頃から豊臣秀吉に仕え、五奉行の一人であった石田三成とは、犬猿の仲であったと言われています。2人の対立が決定的になったのは朝鮮出兵がきっかけであったとされますが、それ以前にも2人は度々対局の発言・行動を行なっています。

忍城の戦いでは浅野長政が石田三成の尻拭いをするような結果となっており、石田三成は非常に悔しい想いをしています。

同じく小田原征伐の最中、豊臣秀吉が徳川家康の居城・駿府城に宿泊する予定だったところ、石田三成が「駿河大納言殿(=徳川家康)は北条左京(=北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがあります」とこれを制止しようとします。

浅野長政はこれに対して「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と直言し、豊臣秀吉はこの言葉を受け入れて駿府城に入城し、徳川家康から厚いもてなしを受けています。

石田三成とは犬猿の仲であった一方、五大老・徳川家康とは豊臣秀吉存命中から親しい関係にあります。徳川家康暗殺計画事件の処罰も隠居にとどまっており、(同じく五奉行であった大野治長らは下総国へ流罪となっている)さらに関ヶ原の戦いにも出陣しなかったにも関わらず隠居料を与えられています。

徳川家康から旧来の友として信頼された浅野長政は、隠居後も徳川家康の話し相手、相談相手として囲碁や茶会をして穏やかに過ごしました。

浅野長政の名言・エピソード

浅野長政に名言やエピソードについて解説します。

豊臣秀吉を一喝する

朝鮮出兵において豊臣秀吉が自ら朝鮮に渡ると言い出した際、石田三成が「直ちに殿下のための船を造ります」と述べたのに対し、浅野長政は「殿下は昔と随分変わりましたな。きっと古狐が取り付いたのでしょう」と述べて、豊臣秀吉を激怒させます。

浅野長政は冷静さを保ち、「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道、日本60余州が困窮の極みとなり、親・兄弟・夫・子を失い、嘆き悲しむ声に満ちております。ここで殿下が渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延し、世は乱れましょう。」

と一喝しました。結局豊臣秀吉の怒りはその場では収まらず、前田利家や蒲生氏郷がこの場を沈めたようですが、後に豊臣秀吉はこの浅野長政の諫言を受け入れ、自らの渡航を諦めています。

岩槻城の戦いで豊臣秀吉に叱責される

1590年、浅野長政は北条氏の支城であった岩槻城を攻略しますが、この時降伏を申し出た城兵を快諾して開城させています。この報告を受けた豊臣秀吉は、自分に無断で開城させたことについて浅野長政を厳しく叱責しました。

忍城の戦いにおいても、石田三成に代わって指揮をとった浅野長政は、最終的に降伏をすすめて開城させています。

浅野長政は、「戦わずして勝利を得るを、誠の勝利と存ずるなり」という格言を残しており、戦においても武力一辺倒ではなく知略を用いて和睦や降伏開城を寛大に認めていたことが分かります。

子孫は忠臣蔵で有名な浅野内匠頭

浅野長政の三男・浅野長重はその後を継いで真壁藩主となり、子の浅野長直の代に播磨国・赤穂藩へと転封します。さらにその浅野長直の曾孫が赤穂事件(忠臣蔵)で有名な浅野内匠頭長矩であり、浅野長矩切腹後、赤穂藩は除封となっています。

フィクションにおける浅野長政

フィクションにおける浅野長政を解説します。

信長の野望における浅野長政

シリーズによっても異なりますが、浅野長政のステータスは、統率44、武勇26、知略62、政治77となっています。内政官としてのイメージが強いからか、統率や武勇は低数値となっています。

ドラマにおける浅野長政

豊臣秀吉が登場するドラマにおいてはその重臣として浅野長政も度々登場しています。

1987年の大河ドラマ『独眼竜伊達政宗』では、俳優の林与一さんが演じています。

伊達政宗の指南役を務め、親しく交流したものの、後に島津家のトラブルを巡って浅野長政の裁定に対する不満を理由に絶交する様子が描かれました。史実においても、職務実施状況に不満をもった伊達政宗より絶縁城を突きつけられています。

浅野長政は庶民から豊臣秀吉・徳川家康まで幅広く信頼された武将だった

浅野長政は豊臣秀吉の貴重な血縁者としてその臣下となってから、非常に優秀な内政官として政治手腕を発揮しました。浅野長政の活躍がなければ、豊臣秀吉の天下統一や太閤検地などの優れた政策は達成できなかったと言えるでしょう。

豊臣秀吉政権下では多くの戦に従軍しながら政務全般の実務をこなし、東国や多くの大名達との取次役まで務めた多忙な日々を過しましたが、その優れた才覚と人柄は領民からも慕われただけでなく、一度は暗殺を疑われた徳川家康にまで信頼されました。

浅野長政の晩年は非常に穏やかなものであり、このような晩年が過ごせたのも、これまでの彼の功績の賜物であったと言えるでしょう。