朝倉義景の評価は高くない?明智光秀との関係も紹介!

朝倉義景は、越前国を治めていた戦国大名です。時代の流れに適応できず事なかれ主義的な対応をしていった結果、織田信長に滅ぼされるという暗愚なイメージが持たれることが多いです。しかし、一方で武芸や文化面に秀でていたという記録も残っています。

この記事では朝倉義景の生涯を年表付きで分りやすく解説します。朝倉義景がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける朝倉義景など、様々な視点から解説していきます。

朝倉義景の基本情報

朝倉義景は戦国時代に生きた武将です。越前国を代々治めていた朝倉氏の第11代目の当主でした。

朝倉義景の人生(年表付き)

できごと

朝倉氏11代目の当主となる

朝倉義景は天文2年(1533)に朝倉孝景の長男として生まれました。朝倉氏は室町時代前期から越前に勢力を築いていた一族でした。応仁の乱の頃に、それまで越前国守護の座についていた斯波氏を追い出したことで、越前国一国を治める戦国大名となりました。朝倉義景の幼少時については記録が見つかっておらず、不明な点が多く、逸話もほとんど伝わっていません。天文17年(1548)に父・孝景が死去したため16歳で家督を相続し、第11代当主となります。また、このときに延景と名乗ります。当初は若年であったため、従曾祖父・朝倉宗滴(教景)に政務や軍事の補佐を受けていました。

義景の父・孝景は室町幕府の御供衆に列していたことなどがあり、朝倉氏は室町幕府と親密な関係を築いていました。このこともあり天文21年(1552)に朝倉義景は、室町幕府13代将軍・足利義輝の「義」の字を与えられ、「義景」に改名します。また、左衛門督の官途も与えられました。弘治元年、宗滴が死去したため義景は自らで政務を執ることになります。

越前国統治と周辺諸国への侵攻

永禄2年(1559)、若狭国に出兵します。この頃若狭守護の武田氏は国内を統率する力を失っており、家臣の謀反が起こっていました。永禄7年(1564)には加賀国へ出兵します。このとき朝倉軍はいくつかの拠点を攻め落とすなどの成果をあげたうえで一乗谷へ帰陣しています。

永禄8年(1565)に足利義輝が松永久秀により暗殺されます。その弟であった足利義昭(この時は出家しており覚慶という名だった)は奈良から近江国、そして最終的に越前に身を寄せ、朝倉義景は当初はそれを歓迎します。足利義昭は朝倉義景に対して自らを擁して上洛するようけしかけますが、朝倉義景はそれに応じませんでした。結果、足利義昭は越前を離れ、美濃国斎藤氏を打ち破り勢いに乗っていた織田信長のもとへ向かいました。

織田信長と対立、そして敗れる

織田信長は、足利義昭を擁して上洛したうえで、義昭を室町幕府15代将軍に据えさせます。そして諸国の大名を上洛させるために足利義昭の名で御教書を発しますが、朝倉義景はこれに応じず、朝倉氏と織田氏は対立関係となります。元亀元年(1570)4月、織田信長は3万の大軍を率いて越前に攻め入り、朝倉氏の金ヶ崎城を落とします。この時に織田氏と同盟関係にあった近江浅井氏がそれを裏切り、浅井・朝倉の連合軍として織田氏に襲い掛かります。織田信長は辛うじて本拠の岐阜へ撤退します。朝倉義景はこのタイミングで美濃へ攻めようとしますが、時機を失い成功しませんでした。その約2か月後、体勢を整え直した織田と徳川の連合軍が、浅井・朝倉の連合軍と姉川で対峙し、浅井・朝倉連合軍はこの戦に敗れます。9月、朝倉義景は浅井軍とともに、織田領である近江国坂本に侵攻し、さらに京都へ迫り、比叡山に入ります。暫く織田軍とのにらみ合いが続きますが、足利義昭の調停により停戦します。

この頃から織田信長と足利義昭の関係が悪化し、足利義昭は反織田信長勢力に書状を送り、信長包囲網の形成を目論みます。近江浅井氏・甲斐武田氏・石山本願寺などとともに朝倉義景もその包囲網の一角を構成していました。元亀3年(1572)7月、織田信長が浅井氏の本拠地である小谷城を攻撃すると、朝倉義景は浅井氏の救援に向かい、さらに侵攻を続けます。10月には武田氏も西上作戦を実行して織田信長に圧力を加えますが、12月になると朝倉義景は部下の披露などを理由に越前へ撤退してしまい、信長包囲網の一角が欠けてしまう格好となりました。

天正元年(1573)、武田信玄が死去し、足利義昭は京都を追放され、織田信長は浅井・朝倉討伐を目指します。朝倉義景は浅井氏を援けるために近江へ出陣しますが、援路を断ち切られ撤退、織田信長はこれを追撃して敦賀に入ります。朝倉義景は本拠の一乗谷に火を放ちさらに撤退し、いくつかの寺などを点々とします。最後は従兄弟の朝倉景鏡に背かれ、自刃しました。

朝倉義景の人柄・人物像

朝倉義景の人柄や人物像についてまとめます。

積極的な外交活動を行う

足利義昭から見切りをつけられてしまったことや、戦に対する消極性から暗愚なイメージが強い朝倉義景ですが、小笠原流弓術の達者でありました。また、各地の大名へ多くの書状を発給しており、足利将軍家、越後上杉氏、薩摩島津氏、出羽安東氏などかなりの広範囲にわたっていたようです。

文化人としての側面

朝倉義景は糸桜の鑑賞や曲水の宴を催すなど、風雅に富んだ人物であったようです。また、和歌・連歌・猿楽・茶道など多くの芸事を好んでいたという記録も残っています。発掘された一乗谷の武家屋敷には京風の山水を備えた庭園の跡なども見つかっています。

朝倉義景の名言・エピソード

朝倉義景の名言・エピソードについて解説します。

明智光秀は朝倉義景に仕えていた?

明智光秀は、その前半性については不明な点が多く、断片的な史料などで越前の朝倉義景のもとに仕えていたと考えられていますが、断定できる史料も残っていません。朝倉氏側の史料に明智光秀という名が出てこないことから、少なくとも役職などにはついていなかったものと思われます。

一国の主であった朝倉義景にとって、当時はまだ下級武士にすぎなかった明智光秀は、気に留める存在ではなかったと思われます。

死後、首は金箔を施され披露された!

自刃したのち、朝倉義景の首は京都で獄門に曝されます。そして織田信長が、浅井親子の首とともに髑髏に金箔を施して、家臣に披露したといわれています。さらに髑髏を杯にして家臣が持ち回りで酒を飲んだという逸話もありますがこれは作り話のようです。織田信長の冷酷残忍なイメージを特徴づけるエピソードとして有名ですが、一方でこれは敵将の菩提を弔い、敬意の念を表したものであるという説もあるようです。

フィクションにおける朝倉義景

フィクションにおける朝倉義景を解説します。

信長の野望における朝倉義景

シリーズによっても異なりますが、統率37、武勇39、知略39、政治59と、暗愚なイメージがそのまま反映されてしまっているような数値となっています。

ドラマにおける朝倉義景

信長に抵抗した勢力の一人であるため、織田信長やその周辺人物を扱った作品にはしばしば登場しまが、事なかれ主義的な人物として描かれることが多いようです。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」ではユースケ・サンタマリアさんが演じています。

朝倉義景は暗愚というイメージだけではない

朝倉義景は、他の周辺諸国の大名たちが激烈な戦を続けていた中で、消極的な行動が多くいまいち時代の波に乗りきれなかったように見えます。しかし、武芸や文化的な面には優れていたという記録も残っており、暗愚な人物という一面だけではないように思えます。朝倉氏の本拠が置かれていた一乗谷は発掘作業が進められ、複数の庭園を持った武家屋敷や京都のような整然とした街並みが形成されていたことがわかっています。一乗谷の繁栄が明らかになるとともに、そこを統治していた朝倉義景の評価もまた変わっていくかもしれません。