朝倉宗滴は朝倉義景にも信頼された名将!朝倉宗滴話記に記された名言とは?

朝倉宗滴は歴代の朝倉家当主に仕えて主に軍事面での補佐の役割を担い、一向一揆衆などと戦いながら越前国・朝倉家の繁栄をもたらした名将として名を残しています。

この記事では朝倉宗滴の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。朝倉宗滴がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける朝倉宗滴など、様々な視点から解説していきます。

朝倉宗滴の基本情報

朝倉宗滴(あさくらそうてき)は越前国出身で戦国時代を生きた武将です。

兄の朝倉氏景から始まり朝倉貞景、朝倉孝景、朝倉義景と代々の朝倉家当主に仕えました。

朝倉宗滴の人生

できごと

敦賀郡司となる

朝倉宗滴は、1477年、越前国守護大名・朝倉孝景の八男として誕生します。

朝倉宗滴がわずか4歳であった1481年、父が死去したため、異母兄の朝倉氏景が家督を相続しました。朝倉氏景は、3人の叔父・朝倉経景、朝倉光玖、朝倉景冬と協力し越前平定に尽力し、かつては同じ斯波氏の重臣であった甲斐氏とその覇権を争って戦いました。朝倉宗滴も甲斐氏との戦いにおいて初陣を飾っています。

1486年に朝倉氏景が死去すると、その後を遺児の朝倉貞景が継ぎます。しかし、元々越前国は名門・斯波氏が守護を務めた国であった所を朝倉氏が下剋上を成し遂げて奪い取ったものであり、その情勢は未だ安定していませんでした。

そんな時にまだ若かった朝倉貞景が新当主となったため、朝倉家内は不穏な空気が流れていました。そして1503年、朝倉景冬の子で敦賀郡司を務めていた朝倉景豊が謀反を起こします。

朝倉宗滴は朝倉景冬の娘を妻としており、朝倉景豊は義兄であったため、朝倉景豊一派に加わるよう要請されます。しかし、朝倉宗滴はこの企てを朝倉貞景に密告し、朝倉景豊の本拠地・敦賀城を包囲、彼を自害に追い込みました。

この功績によって朝倉宗滴は金ヶ崎城と敦賀郡代の職を与えられました。これ以降、朝倉宗滴は一族の重鎮として朝倉家の軍事を取り仕切ることとなります。

九頭竜川の戦い

この頃、隣国・加賀の一向一揆衆が勢力拡大を目指して越前国や周辺諸国へと侵攻するようになります。その裏には、朝倉氏と敵対していた細川政元の支援があり、北陸の諸将達は苦戦を強いられていました。

1506年、加賀一向一揆衆は能登・越中の門徒も加えた30万を超える大軍で越前国へと侵攻し、朝倉宗滴を総大将とする朝倉軍はこれを8千から1万6千程の軍勢で迎え撃ち、九頭竜川の戦いとなります。

数の上で不利であった朝倉宗滴は夜襲を仕掛けて混乱させ、激戦の末に一向一揆衆の越前国内拠点であった吉崎御坊を破壊することに成功します。この戦いによって一向一揆衆は越前国での勢力を弱め、長年続いていた朝倉氏対一向一揆衆の争いも一時的な収束を見せたのでした。

浅井氏・室町幕府との関係を構築

その軍事的な才能を室町幕府や他家からも信頼されるようになった朝倉宗滴は、1517年には幕命で若狭国守護・武田氏の援軍として若狭国・丹後国に出兵して逸見氏と延永氏の反乱を鎮圧します。

続いて美濃国の守護大名・土岐家内で家督争いが生じ、そこに北近江で勢力を伸ばしていた浅井亮政が介入すると、朝倉宗滴は南近江を支配する守護・六角氏と共にこれを牽制するため、1525年に小谷城へと出張します。

朝倉宗滴は小谷城下の一角に山荘「金吾嶽」を築いて陣を敷き、ここで六角氏と浅井氏の調停役を務めました。その過程で浅井亮政から深く信頼され、これがきっかけとなり朝倉家と浅井家は固い絆で結ばれることとなりました。

更に1527年には12代将軍・足利義晴の要請によって上洛し、将軍家と細川家に反旗を翻していた三好氏の軍勢が起こした川勝寺口の戦いに参陣します。朝倉宗滴は三好一派の畠山義堯を撃退するなど活躍しますが、最終的に和睦交渉が行われることとなります。

しかし、細川高国と不和であった朝倉宗滴は1528年に突如帰国してしまい、これによって和睦交渉も失敗、足利義晴と細川高国は再び流浪することとなりました。

享禄の錯乱から死去まで

1531年、加賀国で一向一揆衆の内紛(享禄の錯乱)が発生すると、本願寺に打撃を与えるチャンスと見た朝倉宗滴は、これに乗じて加賀国に出兵します。しかし、共に出兵した畠山氏が手取川で壊滅させられたため、撤退を余儀なくされました。朝倉宗滴にとって数少ない敗戦となり、大変に悔しい思いをしました。

1548年に朝倉孝景の子・朝倉義景が家督を継ぐと、朝倉宗滴は引き続きその信任を受けて政務・軍事面の補佐を務めます。この頃の越前国は朝倉宗滴の補佐を受けた朝倉義景の元で非常に安定して栄華を極め、「義景殿は聖人君子の道を行い、国もよく治っている。羨ましいかぎりである」と讃えられました。

そして1555年、越後国長尾景虎より加賀一向一揆衆征伐をもちかけられた朝倉宗滴は、享禄の錯乱での苦渋を晴らそうと加賀国に出陣します。

ここで朝倉宗滴は1日で南郷・津葉・千足の3つの城を落城させるなど奮闘しますが、一向一揆衆の反撃も激しく、一進一退の攻防戦となりました。その途中に病を受けた朝倉宗滴は、一族の朝倉景隆に総大将を朝倉軍を任せて一乗谷へと帰国しますが、病が重くなりここで死去しました。79歳でした。

朝倉宗滴の人柄・人物像

朝倉宗滴の人柄や人物像について説明します。

実質的な朝倉家当主として

朝倉宗滴はその軍事的な才能高く、朝倉貞景の時代から実質的な朝倉家当主として一族を率いました。その活躍により朝倉家中だけでなく中央においてもその名を高めて大いに信頼され、朝倉家の基盤を盤石なものとしました。

朝倉孝景時代の出兵の大半は幕府の要請によるものであり、越後の長尾景虎などとも書状を交わすなど、外交面でも活躍しています。

当初、朝倉宗滴も家督を狙う野心を持っており、義兄の朝倉景豊が謀反を企てた際も当初はこれに協力していました。しかし、自分が嫡子扱いであった頃から20年余りが経過し、兄・朝倉氏景とその子・朝倉貞景血統の当主相続が盤石化しつつあり、家臣の層にも不安があったために、土壇場になって謀反の企てを密告したと言われています。

このように野心家の一面も持っていた朝倉宗滴ですが、その後は高い才能を持って朝倉家の重鎮として仕え、その繁栄を支えました。

織田信長の才能を見抜く先見性

『続々群書類従』第83条『朝倉家禄』によると、朝倉宗滴はその臨終の際に「今すぐ死んでも言い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介(=織田信長)の行く末を見たかったのだ」と言い残したと言われています。

朝倉宗滴が亡くなった1555年頃の織田信長は、側近の平手政秀に自刃されて「尾張のうつけ者」と揶揄されていた頃であり、後の活躍や才能に気づく者はほとんどいませんでした。朝倉宗滴は、前評判にも囚われずに平等な目で人を見定め、その才能を見出す先見性を持つ人物であったことが伺えます。

文化人としての一面

朝倉宗滴は若年期よりその文化的な才能も発揮しており、1494年には公卿で歌人の飛鳥井雅康から『二十一代集巻頭和歌』を伝授されています。和歌だけでなく連歌も好んでおり、金吾谷の山荘に連歌師の宗長を招き、度々連歌会を催しました。

茶道にも親しみ、はじめ足利義満が所有したとされる名器・九十九髪茄子を一時所有していたとも言われます。

また、公家で儒学者の清原宣賢より儒学における五常の教えを学び、加えて庭で鷹を卵から育てる人工繁殖や、鮭の卵を温度調節された水槽で飼育して人工孵化させるなど、当時としては画期的な試みも行なうなど、非常に勉強熱心であった一面も伺えます。

朝倉宗滴の名言・エピソード

朝倉宗滴の名言やエピソードについて解説します。

『朝倉宗滴話記』

『朝倉宗滴話記』は、朝倉宗滴が語ったものを、その没後に家臣の萩原八郎右衛門尉宗俊がまとめたとされる書物です。

「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候(=武士というものは、犬とも畜生ともいえ、とにかく勝つことが大切だ)」という一文が有名であり、その戦歴の示す通り、朝倉宗滴は強く勝利にこだわっていたことがわかります。

更に同書には、「国を治める見本とすべき人物は、今川義元・三好長慶・武田信玄・毛利元就・長尾景虎・正木大膳亮・織田信長である」と語ったと記されています。

朝倉宗滴の死の影響

18歳から79歳まで12回に渡る出陣を果たした朝倉宗滴は、そのほとんどの戦いで勝利を収め、朝倉氏の家名を高めました。

『賀越闘諍記』では朝倉宗滴を「智謀無双」「智仁勇の三徳を備えている」、『羽賀寺年中行事』では「(朝倉宗滴のことを)万人が賞賛した」と記されており、その名将ぶりが伺えます。

朝倉宗滴という名将が存在した時代の朝倉家は栄華を極め、その軍事力を警戒されて、一向一揆衆を除いては周辺諸国から侵攻されることもほとんどなく、大変平和な時代を迎えていました。しかし、その死後、朝倉家内で朝倉宗滴に匹敵するほどの器量を持つ家臣は現れず、徐々に衰退の一途を辿っていくこととなります。

加賀一向一揆戦において朝倉宗滴より総大将を譲られた朝倉景隆は、その後ほとんど戦果を挙げられずに越前国への侵攻を許してしまいます。さらに朝倉家中での内紛も発生し、1570年頃からは織田信長による侵攻を受け始め、ついに朝倉家は滅亡してしまうのでした。

フィクションにおける朝倉宗滴

フィクションにおける朝倉宗滴を解説します。

信長の野望における朝倉宗滴

シリーズによっても異なりますが、朝倉宗滴のステータスは統率92、武勇88、知略87、政治74と、名将の名に恥じぬ高数値が並んでいます。

朝倉宗滴は天才的な軍才をもって朝倉家の繁栄をもたらした名将だった

下剋上でのし上がり斯波氏や甲斐氏と争っていた朝倉家は、当初室町幕府にとって外様の存在であり越前国支配も盤石なものではありませんでした。

そのような中で次々に武功を挙げて一向一揆衆を苦戦させ、ついには室町幕府の信頼も取り付けた朝倉宗滴の活躍により、周辺諸国・中央に朝倉家の武威を知らしめて越前国の繁栄がもたらされました。

朝倉宗滴の死後朝倉家が急速にその勢力を衰退させたことも、彼の存在がいかに大きかったかを物語っています。朝倉宗滴があと数年生き長らえて、彼が大いに評価した織田信長の、桶狭間の戦いでの勝利を目にしていたら、その後の朝倉家の身の振りかたも変わっていたかもしれません。

朝倉宗滴は高い軍事的な才能と先見性を有する非常に有能な武将であったと評価することが出来るでしょう。