有馬晴信の逸話は?子孫は誰がいるの?原城が居城だった!

戦国時代から江戸時代初期の戦国武将だった有馬晴信は、兄が急死したことにより4歳で有馬家の家督を継いでいきます。当時の肥前で一大勢力を築いていた大友氏から名を一文字賜り、有馬鎮純と名乗り大友氏に従軍し戦に出陣していきます。

しかし、規模が大きくなっていた大友氏は龍造寺氏や島津氏といった大名と対立していた大友氏。大友氏と同勢力を保持していた龍造寺氏の領土も徐々に広がっていき有馬晴信の領土も圧迫していきます。

今回は、有馬晴信の一生について生誕から没するまでを年表で紹介していきます。生涯の間に、起きたできごとや有馬晴信の人物像を様々な角度からみていき有馬晴信とはどんな人物であったかを解説していきます。

有馬晴信の情報

有馬晴信の基本情報をみていきましょう。

有馬晴信の出身国

有馬晴信の出身は肥前国で現在の北九州地区にあたる場所の出身です。肥前国には肥前守護だった大友宗麟が肥前一帯を支配下に置いていた状況で、有馬家は対抗する勢力もないため大友宗麟に臣下として働いていきます。

有馬晴信には兄の有馬義純が21歳で嫡子を残すことなく、亡くなってしまい有馬晴信が4歳で有馬家の家督を相続することになります。

有馬晴信の一生

有馬晴信について年表ごとにみていきましょう。

有馬晴信の生誕から参加した戦

できごと

有馬家の家督相続から龍造寺氏の圧迫

幼い子供時代に、有馬家の家督を相続したものの隣国の龍造寺氏などに抵抗する力もなく一時的に大友宗麟の下で他国と競り合っていきます。小国の有馬家には財力がないため財力を集めるために奔走していきました。

有馬晴信が生まれた戦国時代後期に、異文化となるキリスト教が伝来しキリスト教が広まり始め一部の大名や庶民も入信。有馬晴信も当初はキリシタンになることを嫌がっていましたが、財力を集めることを目的にキリシタンの道を歩みだしていきます。

これによってイエスズ会から、財を集め龍造寺氏と対抗する力を付けていったものの有馬家単独で龍造寺氏と対抗するまでには至らなかったようです。

龍造寺氏を破り島津氏と同盟

有馬晴信がイエスズ会と財について、交渉を重ねていた時に従軍していた大友宗麟が島津氏と耳川で戦い敗北してしまいます。この戦で大友宗麟は多くの武将を失ってしまい勢力を弱めていくことになります。

反対に勢力が均衡していた龍造寺隆信は、大友氏の支配地域を掌握していき大友宗麟よりも勢力を拡大し島津氏との競り合いを始めていきます。これにより大友氏の下ではいずれ龍造寺隆信に攻め込まれかねないと感じた有馬晴信は、島津氏に近づいていき同盟を交わしていきます。

1584年に島津氏が九州討伐に乗り出し、龍造寺隆信と争っていきます。有馬晴信が島津氏と通じていたことが龍造寺隆信の耳に入ると約25000の軍勢を率いて前岳城を攻めこんでいきます。

有馬晴信は籠城の構えをとっていましたが、島津氏より先鋒隊として派遣された島津家久の立ち回りの良さにより龍造寺隆信を討ち取ることに成功していきます。

巨大勢力の豊臣氏の配下へ

龍造寺氏が島津氏に討ち取られたことにより、島津氏は九州一の勢力を誇り各国を制圧していきます。島津氏に微力ながら抵抗していた大友氏が、豊臣秀吉を頼っていきます。

豊臣秀吉は九州平定をするべく大軍を率いて、九州へ南下していくと有馬晴信は島津氏を見限り豊臣秀吉の配下になろうと単独で交渉を始めていき豊臣軍の一員として九州平定へ参加していきます。勢いのあった島津氏でしたが、徐々に形勢が不利となっていき降伏する形になります。

有馬晴信の人柄

有馬晴信の人柄について紹介していきます。

バテレン追放からキリシタンを守る

既に亡くなってしまっていた織田信長の政策を認めていた豊臣秀吉でしたが、キリシタンの増加に伴い反乱を起こすことを危惧しキリシタンを弾圧することを決行していきます。弾圧理由は、反乱を起こされる以外にもあったようですが一番大きな理由は一向一揆を阻止するためだったようです。

バテレン追放が発令されても、自身がキリシタンだった有馬晴信はキリシタンたちを追放する気にはなれず匿い続けていき主君の気を侵害せずにキリシタンたちを優しく保護していきます。この行動から分かるとおり、有馬晴信は周りの人を見捨てて置けない優しい性格の持ち主だったと考えられます。

キリシタンからは厚い信頼を寄せられていた

キリシタンの弾圧を行っていたこともあり、有馬晴信について残されている資料が数少ないようです。しかしながらキリシタンとして、熱心に信教していた時には宣教師やキリシタンから信頼されていたようで何かと頼りにされていた人物だったようです。

有馬晴信のエピソード

有馬晴信の逸話やエピソードについて紹介していきます。

貿易活動を熱心に取り組んだ

隣国の龍造寺氏が有馬領土に何度も攻め込んでいたこともあり、有馬家は疲弊している状況にありました。そこに運よくキリスト教徒の宣教師が布教を行っていたことを知り、貿易に注視し自国のものを他国に販売していったことで財力を強化することに繋がっていきます。

この貿易を積極的に行ったことで、宣教師などの力を借り武器や兵糧面で助けられていました。

マカオ市民との争いに激怒した

南蛮や朱印船貿易が盛んに行われ始めた江戸初期では、主に東南アジアとの輸出入を行い日本国の貴重な財力源になっています。朱印船貿易を行っていた1604年にマカオに到着した有馬晴信の貿易船とポルトガルから派遣されていたアンドレ・ペソア総司令官と争いへと発展します。

ことの発端は船員同士の取引を巡っていい争いをしていたところからでしたが、どちらかが先に攻撃をしたことより武器を交えての争いになってしまいます。有馬晴信の船員はほぼ殺害されてしまったことを聞いた有馬晴信は激怒し徳川家康から討伐の命を賜りアンドレ総司令の討伐に乗り出していきます。

貿易が止まってしまうことを恐れたポルトガルは、アンドレ総司令を徳川家康の下に謝罪に向かわせるも命の危機を感じたアンドレ総司令は長崎に着いてすぐに自国に戻ろうと準備していきます。これを知った有馬晴信は、手勢を率いてアンドレ総司令の乗るポルトガル船を攻撃し爆破させていきます。

フィクションにおける有馬晴信

仮想上の有馬晴信について紹介していきます。

戦国布武における有馬晴信

こちらのゲーム作品では、平均的なステータスキャラとして起用することができ能力は敵味方関係なく体力を回復できる武将です。使い方によっては戦況を変えることができる武将のようで、どっちつかずの有馬晴信像がそのままキャラクター化されています。

有馬晴信は幕府から無実の罪を被せられたキリシタン大名

関ヶ原を終えた直後に、各地の大名が転封させられていて有馬晴信もそのうちの一人で何とか自分の居た領土に戻るべく本多正純の重臣だった岡本大八に賄賂を贈ったことで破滅への道をだどっていくことになります。今も同じだと思いますが、生まれ育った土地は思い入れの深い場所でもありそこのその土地の領主ともなればなおさら戻りたかったことでしょう。

朱印船貿易を盛んに行い徳川政権や豊臣政権に尽くしてきた、有馬晴信でしたが未来を読む力があまりなかったことで自らの立ち位置を決められずその時々の感情で行動していた武将だったと思いました。