荒木村重は有能な反面、優柔不断だった!「だし」とまんじゅうのエピソードとは?

荒木村重と言えば、織田信長に謀反を起こし、城を棄てて逃亡したことから、ネガティブなイメージがありますが、意外なことに当時の史料にはマイナスな評価は残っていません。むしろ、交友関係の広さが評価されている面があります。

今回は荒木村重の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

荒木村重の基本情報

荒木村重の人生

できごと

池田家家臣から織田家の有力武将に

荒木村重は、摂津池田家の家臣:荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として生まれました。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一門衆になっています。しかし、三好三人衆の調略に乗り、池田知正と共に三好家に寝返り、池田家を掌握しています。

その後、池田家が仕えていた織田信長から性格を気に入られて、三好家から織田家に移ることを許され、1573年に茨木城主になり、織田信長が足利義昭を攻めたに際、若江城の戦いで戦功を挙げています。一方の池田知正は足利義昭方に属しており、後に織田信長に降伏しています。その際には荒木村重の家臣となり、荒木村重が主家の池田家を乗っ取る形になっています。

1574年には、伊丹城(有岡城)を落とし、摂津一国を任されています。以後も織田家に従い各地を転戦しています。

織田信長に謀反

1578年、荒木村重は織田信長に対して反旗を翻します。織田信長は使者を派遣し、翻意を促しますが、豊臣秀吉の家臣:黒田孝高(官兵衛)を拘束し、監禁してしまいました。以後、荒木村重は有岡城に立てこもり戦い、一度は織田軍を退けましたが、頼みの毛利家の援軍も来ず、兵糧も尽きてしまいました。1579年、荒木村重は単身有岡城を脱出し、嫡男:荒木村次の尼崎城に移っています。

織田信長は見せしめのため、荒木家の重臣や妻子を処刑しています。結局、荒木村重は摂津から逃走しますが、織田軍の追撃に遭い、最終的には毛利家を頼り、亡命しています。

茶人として復活

1582年、本能寺の変で織田信長が亡くなると、堺に戻り居住しています。豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人として復活。千利休とも親交を持っています。しかし、後に豊臣秀吉の勘気を受け、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)と名乗っています。1586年、堺で死去しています(享年:52歳)。

荒木村重の人柄・人物像

荒木村重の人柄・人物像について、紹介したいと思います。

有能な武将だった

荒木村重が池田氏の家臣だったころについては、史料がすくないためはっきりしないことが多いですが、一門衆になっている点から、若いころから将来を嘱望された武将だったかもしれません。その後は、三好家、織田家と主家を変えていることから世渡りのうまさもある現実主義者の一面も伺えます。

「彼一人味方に属せば摂州一国平治することは言うに及ばず」とも言われた荒木村重。織田家の家臣としては日が浅かったですが、摂津一国を任されていることから、織田信長からも非常に期待された武将だったのは間違いなさそうです。

豪胆な反面、優柔不断な面も

荒木村重が織田信長を迎えた際、織田信長が平伏する荒木村重にまんじゅうを差し出しました。しかし、織田信長は刀の先にまんじゅうを突き刺して荒木村重に差し出しました。つまり、その気になれば織田信長が荒木村重の喉を突ける状況でしたが、荒木村重は迷うことなくまんじゅうを食べてみせました。

この度胸に感心した織田信長は、荒木村重を重用するようになったとも言われています。しかし、後に妻子や家臣を棄て、城から逃亡していることから、優柔不断で臆病な面もあったのではないかと思われます。

荒木村重の名言・エピソード

荒木村重の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

謀反の理由とは?

荒木村重が反旗を翻した際、織田信長は使者を送り、翻意を促していますが、謀反の理由は何だったのでしょうか?

①反信長勢力の要請に従った

荒木村重は足利義昭、石山本願寺とも親しかったこともあり、両者が荒木村重に要請した可能性があります。荒木村重が支配していた摂津は、播磨に進出していた豊臣秀吉、丹波に進出していた明智光秀にとって重要な地点であり、荒木村重が謀反を起こすと両者が孤立するため、それを狙ったのではないかとも言われています。

②兵糧の横流しの発覚を恐れた

荒木村重の家臣が、密かに石山本願寺に兵糧を横流していたことがあり、それが発覚して織田信長に処罰されるのを恐れたから、とも言われています。

➂怨恨説

先述しましたが、織田信長を出迎えた際、刀に差したまんじゅうを食べさせられたのが屈辱で、恨みを募らせていたという説があります。

④将来に希望が持てなくなった

本願寺攻めの司令官は佐久間信盛、中国攻めは羽柴秀吉となり、織田家の軍団長のポジションが埋まってきたこともあり、この先、自分の居場所がなくなってしまうのではないか、と悲観してしまったという説です。また、摂津国内に織田信長への反発があり、国内の勢力から突き上げられたという説もあります。

「だし」とは?

「だし」とは荒木村重の妻だった女性で、正室か側室かは分かっていません。おそらくは、側室の可能性が高いと思われ、年齢は荒木村重よりも20歳以上年下だったと言われています。だしというのはキリスト教の洗礼名だったため、キリシタンだったとも伝えられています。

1579年、荒木村重は有岡城から逃亡した際、織田信長は荒木家の重臣や妻子の多くを処刑していますが(この時、500人以上が処刑されたと言われています)、その中にだしも含まれていました。信長公記ではだしについて、「今楊貴妃(いまようきひ)」と言われるほどの美人だったという記載があり、年齢は21歳であったと書かれています(別の史料では24歳)。

フィクションにおける荒木村重

フィクションにおける荒木村重について、紹介したいと思います。

信長の野望における荒木村重

信長の野望における能力値ですが、統率:81、武勇:67、知略:74、政治:64となっています。能力的には平均的な水準だと言えるでしょう。

ドラマにおける荒木村重

荒木村重が登場するドラマは意外に多いです。しかし、サブキャラ的な扱いな為、印象が薄いので目立たない存在なのかもしれません。近年だと「軍師官兵衛(大河ドラマ、2014年)」に登場しています。

荒木村重にネガティブな評価は少ない

荒木村重は、妻子や家臣を棄て有岡城から逃亡したことを恥じ、晩年は道糞(どうふん)と名乗っていました。しかし、豊臣秀吉から命じられ、道薫(どうくん)に改名したとも言われています。しかし、道薫という名前は史料には出てきていません。

荒木村重は謀反人や卑怯者のイメージがありますが、意外なことに史料にはネガティブな評価はありません。むしろ、豊臣秀吉や毛利家、千利休などの有力者に顔の効く貴重な存在だったようです。実際の荒木村重のは、皆さんが思っている人物像ではないのかもしれません。