尼子晴久、戦国の世 中国地方の覇権をかけて大内氏、毛利氏と戦い続けた武将

戦国時代、日本の中国地方は大内(おおうちし)氏、尼子(あまごし)氏、毛利(もうり)氏の3国で覇権を争う時代でした。今回は、20代にして尼子氏を背負うこととなった尼子晴久(あまごはるひさ)の人生をお伝えいたします。

尼子晴久の基本情報

尼子晴久は、尼子家が中国地方で勢力を伸ばす中、父親と兄を早くに失くし、祖父から家督を譲り受け、強敵がひしめく中、勢力を拡大し、一枚岩でない尼子氏をひとつにまとめ中央集権化を実現した武将でした。

尼子晴久の人生

できごと

尼子晴久の人生を次の三つに分けるとわかりやすいと思います。
・晴久が誕生してから尼子家の家督を譲り受けるまで
・祖父が亡くなり第一次月山富田城の戦いに勝利するまで
・尼子氏内に内乱が起き尼子晴久が死去するまで

晴久が誕生してから尼子家の家督を譲り受けるまで

尼子氏(あまごし)が世に知られるようになったきっかけは、尼子晴久(あまごはるひさ)の祖父、尼子経久(あまごつねひさ)の時代からでした。もともと尼子氏は出雲や近江などの守護を務める京極政経(きょうごく まさつね)に仕えており、尼子経久自身、京極家の人質として京都に5年ほど滞在していたこともありました。1478年、尼子経久は出雲に帰還すると次第に国人衆との結びつきを深め室町幕府の命に背き、京極政経の統治する寺社領を横領し、勢力を拡げていきました。このような行動から幕府・守護から反発を受け守護代職をはく奪されたものの1500年には、守護代に復帰し、出雲大社の造営などを行い、出雲を統治する者として次第に認められていったのです。

1514年、尼子晴久は尼子経久の嫡男、政久(まさひさ)の次男として生まれたものの父、尼子政久が出雲阿用の攻略に出陣中、矢に当たり亡くなると、その後、晴久の兄も亡くなり尼子晴久は尼子家の家督相続の一番候補になりました。つまり、尼子晴久は幼いころから祖父、尼子経久の後継者として育てられ、1537年、経久80歳、晴久23歳の時に尼子家の家督を譲り受けたのでした。

祖父が亡くなり第一次月山富田城の戦いに勝利するまで

1520年代、出雲近隣の覇者は大内家(おおうちけ)であり、そんな中、尼子晴久の祖父、尼子経久は勢力を伸ばしていき、山陰、山陽の11カ国を制圧していきました。後に中国地方の覇者になる毛利家(もうりけ)も尼子家との関係は極めて良好であり、1524年に尼子家は毛利元就(もうりもとなり)と連合を組み、大内軍の銀山城を破ったこともありました。しかし、尼子側はすでに毛利元就の優れている点を見抜いており、毛利家のトップであった元就に替えて元就の弟に家督を継がせるべく策略をめぐらしたのです。この策略を知った毛利元就は、1526年尼子氏との同盟を破棄し、大内家側につくことを決心したのでした。

1537年、23歳の時に尼子氏の家督を譲り受けた尼子晴久は翌年、1538年には、中国地方経済の要である石見銀山(いわみぎんざん)を大内家から奪い取り、さらに播磨国(現在の兵庫県姫路市近辺)へと勢力を伸ばしていきました。しかし、当時の足利将軍家は、尼子氏の播磨進出に警戒し、大内家に尼子氏討伐を要請したのです。命を受けた大内家は尼子氏の勢力を抑えるべく攻勢に転じ、表面上は和睦していた尼子氏と大内氏の関係は破綻することになったのです。

1540年、尼子晴久26歳の時、大内側となった安芸(現在の広島市)の毛利元就を攻めることを決心します。尼子氏内でも祖父、尼子経久を含めて、毛利氏への攻撃を止める声もありましたが、十分な兵力を整えていた尼子晴久には自信がありました。毛利元就の居城、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)を囲み、さらに大内家の援軍の足止めにも成功したものの、毛利元就による徹底した守りの籠城(ろうじょう)戦法により、尼子軍は攻めきれず、さらに遅れたとは言うものの大内軍の精鋭が元就の援軍に駆け付け、尼子軍は敗退、敗走することになったのです。

勢いが出た大内、毛利連合軍は、尼子軍を追い、尼子軍として出兵した国人たちも大内軍に寝返っていきました。今度は、尼子晴久はじめ尼子軍は居城である月山富田城に籠城。
地の利を活かした守りと攻めで、尼子晴久は大内、毛利連合軍を最終的には破ったのです。

尼子氏内に内乱が起き尼子晴久が死去するまで

居城、月山富田城に籠城し1943年に大内、毛利連合軍に勝利した尼子晴久でしたが、尼子晴久の大切な祖父であり尼子軍を支えてきた尼子経久は1941年11月既に亡くなっていました。尼子経久への信頼により、尼子家を支持してきた国人衆も少なくなく、経久の死後尼子家を去った者たちもいました。

さらに、尼子氏内に内乱が勃発します。一説には、毛利元就が噂を流して尼子晴久と尼子軍の親衛隊である「新宮党」(しんぐうとう)が対立するように仕掛けたのだとも言われています。「新宮党」は、尼子氏の戦闘部門で祖父、尼子経久の弟である尼子久幸(あまごひさゆき)が党主でした。しかし、尼子久幸も尼子経久と同様に1941年に亡くなっていました。尼子晴久が家督を譲り受ける前から、「新宮党」は尼子氏内でも特別な存在であり、独立性も強い戦闘グループになっていました。言い換えれば、尼子氏の主力部隊でした。そんな中、尼子晴久の耳に入ってきたのが「新宮党」が敵方と通じており、尼子氏からは離反するという噂でした。

1554年、尼子晴久は「新宮党」の幹部たちを暗殺し、「新宮党」を解散させ、晴久の直轄の軍に組み入れ、中央集権化を図ったのでした。中央集権化に成功した尼子晴久でしたが、かってに比べると尼子軍の兵力が増大する結果にはなりませんでした。

この頃になると大内氏の勢力は弱まり、代わって勢力を伸ばしてきたのが毛利元就でした。尼子氏は、石見銀山の利権は守ったものの尼子氏はかつての所領であった備後、備中、因幡などは毛利氏が治めるようになっていきました。1561年、尼子晴久は月山富田城で急死します。脳溢血(のういっけつ)であったとも言われています。尼子晴久の死は外側には伏せられていましたが、毛利元就の知るところとなり、元就は1565年に尼子氏の月山富田城に攻め込みます。後を継いだ尼子晴久の嫡男や尼子家の家臣たちは奮戦し、いったんは毛利軍を退けますが、1566年尼子氏は、月山富田城を開城し、これを以て尼子氏は滅んだのです。

尼子晴久の人柄・人物像

尼子晴久の人柄は次のような人物であったと言われています。

覇気があり、責任感の強かった晴久

尼子晴久は、祖父である尼子経久から家督を譲り受け、若くして尼子氏宗家のトップに立ち、若いながらも尼子氏の領地をしっかりと守り、さらに拡大しようとする覇気のある人物であったと考えられています。しかし、一方で尼子氏の軍事力を握っていたのは、尼子経久の弟、尼子久幸であり、戦のときにも尼子晴久と尼子久幸のふたつの陣営から違う指令が届き、尼子軍の中で混乱が起きたこともあったと伝えられています。古い記録によれば、大叔父である尼子久幸は、尼子晴久を「短気で大将の器ではなく、血の気ばかりが多くて仁義にかけているところがある」と評していたようですが、若さゆえという点があるのと同時に尼子晴久は尼子家を背負っていく責任感を強かったのかもしれません。

内部問題で大きなストレスを感じていた晴久

実際のところ、晴久にとっては、祖父の弟にあたる叔祖父(おおおじ)尼子久幸の存在は晴久にとっては悩みの種であったことでしょう。尼子久幸は今の尼子氏があるのは、兄の尼子経久と自分が力を尽くして勝ち取ったものであり、孫のような晴久に指示されたくないという思いはあったでしょうし、一方で晴久は叔祖父の力は十分認めているものの、家督を譲り受けたのは自分であり、尼子家をまとめていかなければならないという意識は常にあったのだと思います。領域外の大内氏や毛利氏の問題を抱えながら、内部にも問題を抱えストレスのかかる状況で生き抜いてきた人だったのだと思います。

尼子晴久や尼子氏のエピソード

次に尼子晴久に関わるエピソードを見ていきましょう。

 尼子晴久、大内氏から奪い取り、存命中、毛利氏から守り抜いた石見銀山

石見銀山(いわみぎんざん)とは、現在の島根県太田市にあるかつての日本最大の銀山であり、戦国時代後期以後、江戸時代の初め頃に最盛期を迎えました。当時、日本は世界中の銀の3割以上を産出していたと言われていますので、石見銀山は日本のみでなく世界でも有数な銀山だったのです。

当然のこと、石見銀山のもたらす銀の産出の経済的効果は莫大なもので、戦国時代、江戸時代において、中国地方の覇権を握るためには、この銀山を獲得することは欠かすことのできないことがらでした。

この銀山は鎌倉時代の末期、1300年代の終わりに大内氏によって発見されたものだと言われています。石見銀山を手に入れた大内家は中国地方における最大の大名になることができたのです。この石見銀山の獲得に向けて動き出したのが、尼子氏でした。尼子晴久の祖父である、尼子経久は1537年に石見銀山の占領に成功しますが、その後また、大内氏に奪い返されますが、1537年、尼子晴久が家督を譲り受けると翌年、1538年、晴久は大内氏から石見銀山を奪い返すことに成功したのです。

当時、毛利元就(もうりもとなり)が勢力を拡大していきましたが、尼子晴久が存命中、尼子氏が石見銀山を奪われることはなく、尼子晴久の死後、銀山は毛利氏が獲得することになったのです。

尼子氏の拠点、難攻不落の月山富田城

尼子氏と言えば、月山富田城(がっさんとだじょう)を最初に浮かべる歴史ファンや城マニアの方も少なくないことでしょう。月山富田城のことは「天空の城」や「難攻不落の城」
と例えられることもある名城であり、典型的な山城でした。

標高183.9メートルの月山(がっさん)に建てられた富田城(とだじょう)は1220年代から歴代の出雲の守護職の居住として使われてきましたが、1396年から1566年までは尼子氏の本拠となり、尼子晴久の祖父、尼子経久のときにも修築され、誰が攻めても攻めきれない強固な城になったのです。実際に1542年から1543年の「第一次月山富田城の戦い」では、敗走して月山富田城に逃げ込んで籠城した尼子氏でしたが、追いかけてきた大内氏と毛利氏の連合軍に勝利しています。

フィクションの中の尼子晴久

次にフィクションの中で語られる尼子晴久や毛利氏の陰謀を見ていきましょう。

尼子家の戦闘専門集団であった新宮党(しんぐうとう)

周りを競合勢力に囲まれている中、尼子晴久の祖父、尼子経久の時代に尼子氏は山陰を統治する大勢力になりましたが、その要因のひとつは、尼子氏には、「新宮党」(しんぐうとう)の存在があったからだと言われています。「新宮党」とは、それまでの武士のほとんどは、平時には農民として働き、戦(いくさ)のときは武士として出陣することが一般的であったのに対して、尼子経久の弟である尼子久幸を党主として尼子氏のための戦闘専門の組織である新宮党を作ったのでした。本拠地を月山富田城の山麓、新宮谷に構え、数々の戦いに勝利していったのです。新宮党は近隣の戦国大名たちに恐れられていました。

尼子氏本家と新宮党を切り離したのは毛利元就の仕業?

そんな新宮党を怖れたひとりが毛利元就(もうりもとなり)だったと伝えられています。

尼子氏の主力部隊であった新宮党は活躍とともに、出雲の寺社の統治権を持つほど権限を拡げていきましたが、尼子経久が尼子晴久に家督を譲り、新宮党の党首尼子久幸を毛利攻めで失うと、本家、尼子晴久と新宮党の関係は悪化していきました。そこにつけ込んだのが毛利元就であり、元就は、本家、尼子晴久側に新宮党に謀反の意志があるという噂や新宮党は尼子氏から離れて別の大名と手を組むという噂を流したとフィクションの中では語られています。これらの噂を信じた尼子晴久は1554年、新宮党の幹部たちを暗殺し新宮党は本家に吸収されていきました。これを機に尼子晴久は尼子氏内をひとつにまとめ中央集権化に成功したとも言えますが、他の戦国大名からは、尼子家の戦力低下に見えたのかもしれません。

強敵ひしめく中で戦国時代を生抜いた尼子晴久

 

ここまで、尼子晴久の人生を見てきましたが、尼子晴久は、祖父である尼子経久と共に尼子氏の最盛期を作り出した優れた武将であったといえるでしょう。晴久が家督を譲り受けてからは、石見銀山を奪われることなく尼子家が守り抜いたのです。また、尼子家内部にも問題を抱えていた尼子晴久でしたが、中央集権化も達成し、大内氏や毛利氏という強敵がひしめく中で中国地方の戦国時代を生き抜いた名将なのです。