明智光安は明智光秀の叔父で息子は明智秀満!明智光秀に託した願いとは

明智光安は明智光秀の叔父であり、自身の妹を斎藤道三の側室として縁戚関係を築くなど、斎藤道三の近しい家臣として仕えました。

この記事では明智光安の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。明智光安がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける明智光安など、様々な視点から解説していきます。

明智光安の基本情報

明智光安(あけちみつやす)は美濃国出身で、戦国時代を生きた武将です。

長良川の戦いで破れる最期の時まで、斎藤道三に仕えました。

明智光安の人生

できごと

明智光秀の後見人となる

明智光秀は、1500年、明智光継の三男として誕生します。明智家は、美濃国守護であった土岐頼貞の九男・長山頼基の子である明智頼重を祖先とし、室町幕府の奉公衆を務め、代々長山の明智城を拠点としてきました。

父・明智光継は長山城主として美濃国東部を治めていましたが、美濃国において斎藤道三が台頭してくるとこれに臣従して明智家を存続させます。

その際、娘(明智光安にとっては妹)の小見の方を人質という形で差し出し、斎藤家との関係を深めました。1532年には小見の方は斎藤道三の正室となり、織田信長正室・濃姫を産んでいます。

明智光継のあとは、明智光安の兄で明智光秀の父である明智光綱が家督を継いでいました。『細川家記』によれば、明智光綱は父と共に斎藤道三に仕えていたものの、居城の明智城を攻められ討死したと言われていますが、真偽の程はわかっていません。

何れにせよ1535年に明智光綱が亡くなると、その嫡男・明智光秀がまだ若年であったため、明智光安がその後見人となります。明智光秀が元服した後も明智光安が一族の家政を担い、領国経営を行なっていました。一説では、明智光秀が家督を固辞したと言われています。

斎藤家との関係

明智家前当主・明智光綱が斎藤道三に討ち取られたとも言われる一方で、明智光安は斎藤道三と良好な関係を築きます。斎藤道三の嫡男・斎藤義龍とも親しく、「水魚の交わりであった」と記されています。

1542年、斎藤道三が美濃国守護であった土岐頼芸を追放して美濃国取りを成功させます。

土岐氏の追放に代表されるように、斎藤道三は「マムシ」の渾名に相応しい強引で悪質とも言える手段でその勢力を拡大させますが、この頃から家臣や国衆の反感を買うようになり、斎藤義龍とも対立するようになったと言われます。

明智家は土岐氏の庶流にあたりますが、この時土岐氏には従わず、これまで通り斎藤道三への臣従を続けています。

明智光安は、1547年に室町幕府12代将軍・足利義晴との謁見を果たします。代々室町幕府奉公衆を務めてきた明智一族の貢献が認められて、従五位下・兵庫頭の地位を与えられました。

長良川の戦い

明智光安は1553年に出家して宗寂と名乗りますが、その平穏な時間はすぐに終わりを迎えます。

1554年、斎藤道三は斎藤義龍に家督を譲りますが、斎藤義龍を「耄者(ほれもの=愚か者)」を称した一方、弟の斎藤喜平次を「利口者」として名門一色氏の姓を与えるなど偏愛します。

こうして斎藤道三と斎藤義龍父子の対立は次第に激化していき、斎藤義龍が弟の斎藤孫四郎・斎藤喜平次を暗殺すると、1556年についに長良川の戦いが勃発します。

斎藤家家臣達は斎藤道三と斎藤義龍のどちら側につくか、決断を迫られます。その結果、家臣達の多くは斎藤義龍に味方し、斎藤道三が不利な立場にあるのは明白でした。

明智光安は斎藤道三との個人間の親交も厚かったとされており、また妹・小見の方が斎藤道三の正室という近しい立場にあったことから、斎藤道三軍へと加わります。

斎藤道三軍が約2千7百余であったのに対し、斎藤義竜軍は1万7千を越す圧倒的大軍でした。斎藤道三の娘婿となっていた織田信長も自ら出陣しますが、この援軍は間に合わず、ついに斎藤道三は首を取られました。

戦後、明智家が味方に加わらなかったことに激怒した斎藤義龍は、3千余の兵を明智城へと差し向けます。明智光安は明智城に籠城して奮闘し、手勢がわずかであったにも関わらず1日を持ちこたえたと言われています。

しかし、圧倒的な兵力差は埋められず、最期の時を迎えます。大軍に囲まれた明智城の中で同じく明智家の家政を担ってきた弟の明智光久らと共に自害し、57年の生涯を閉じました。

明智光安の人柄・人物像

明智光安の人柄や人物像について説明します。

長良川の戦い実は中立策を取っていた

外戚という立場と斎藤道三との友誼から、不利な状態にあった斎藤道三に加わったとされる明智光安は、忠義心が高く非常に義理深い人物であったのではと考えられます。

しかし、長良川の戦いではどちらの軍に帰順するか明確な姿勢を示さずに明智城に篭る中立策をとったという説もあります。

どちらにせよ戦後明智城が斎藤義龍に攻められたのは事実であり、戦いの後に斎藤義龍への臣従を拒否したか、斎藤義龍がこの中立策に対して怒ったか、この時の明智光安の判断によりここで一時明智家が断絶する結果となってしまいました。

明智光秀に一族存続を託す

長良川の戦いに敗北し明智城も落城しようとしているその時、明智宗家の嫡男である明智光秀は、一族をともにここで討死すると宣言します。

しかし、明智光安はこれを拒絶し、「私はここで自害しますが、殿もここで自害してしまうと、明智家が断絶してしまいます。しかし、祖父の遺言もあり、また殿の志もここで終わるようなものではありませんから、落ち延びて明智の家名を再び立ててはくださいませんか」

と嘆願します。そして、「我が子を召し連れ、末々取り立てていただきたい」と、明智秀満を託して、明智光秀を脱出させたといいます。

明智光安の一族と我が子を思う気持ちの強さと、最期の時まで冷静な判断をくだすことができる人物であったことが伺えます。

明智光安の名言・エピソード

明智光安の名言やエピソードについて解説します。

遠山景行同一人物説

安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した商人・鷹見弥之右衛門という人物が記した『恵那叢書』の中に、「遠山景行は土岐の族、初め光安と称し斎藤道三等に従う後、遠山景行入入道宗宿と号す」という一文があることから、明智光安=遠山景行なのではないかと考える説があります。

遠山景行は美濃国恵那郡明知城主を務めた武将であり、明智光秀が属する土岐明智家を盟主とする明知遠山氏の当主となっていました。その為、明智光安=遠山景行説を採用すると、明智光安は土岐明智家嫡男の明智光秀を後見してその主導権を握ったとともに、明知遠山氏の家督も相続していたこととなります。

嫡男・明智秀満のその後

明智城落城に際して父・明智光安から明智光秀に従って落ち延びるよう命じられた嫡男・明智秀満は、後に明智家の重臣となります。

本能寺の変では先鋒を務め、山崎の戦いで明智光秀が破れたことを知った明智秀満は琵琶湖の湖上を馬で超えて坂本城に向かったという「明智左馬助の湖水渡り」の伝説も残る忠義心の厚い人物として知られています。

山崎の戦いの後、辱めを受けるのを避けるために明智光秀の妻子を刺し殺したのは明智秀満であり、その後自身も自害して明智光秀の後を追いました。『言経卿記』では63歳になる明智秀満の父が丹波横山で捕らえられて磔にされたと記されています。

フィクションにおける明智光安

フィクションにおける明智光安を解説します。

ドラマにおける明智光安

斎藤道三を主人公とする司馬遼太郎著の『国取り物語』の実写ドラマでは、斎藤道三の忠臣、また明智光秀の後見人として登場しています。

1973年版では俳優・声優の久米明さんが、2005年版では俳優の三上市郎さんが演じました。

明智光秀を主人公とする2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、ドラマの序盤から登場し、俳優の西村まさ彦さんが演じています。混乱続く美濃国において斎藤道三の元で明智家を存続させるために奮闘し、長良川の戦いでは父を裏切った斎藤義龍を見限り、最期まで斎藤道三に従った姿が描かれました。

明智光安は一族を守り智将・明智光秀を生き延びさせた人物だった

土岐家の庶流に属しながら、国取りを行なった斎藤道三に仕えて、一族を存続させた明智光安でしたが、長良川の戦いを迎えても明らかに不利であった斎藤道三に味方した結果、明智家は一時的に断絶してしまいました。

明智城落城の際に明智光秀に語った言葉は、江戸時代に書かれた『明智軍記』に記されたものであり、その史料としての価値は低く、創造性が高いとされていますが、何にせよ、ここで一族と共にここで討死してもおかしくはなかった明智光秀を生き延びさせたことは、明智光安の最大の功績であったと言えるでしょう。

明智光安の死後、明智家は明智光秀の活躍により復興を果たし、嫡男の明智秀満も明智家重臣として最期まで活躍しました。

明智光安が兵庫頭にも命じられて室町幕府との繋がりを強めたことや、妹・小見の方が産んだ濃姫が織田信長の正室となったことは、その後明智光秀が出世を果たす上で非常に役に立っており、明智光秀も幼い時から自分を後見してくれた叔父に対して、大きな感謝の心を持っていたことでしょう。