明智秀満が主君に賛同し本能寺の変が発生した!逸話や人物像を紹介

歴史上の人物たちの存在は、残されている書物から紐解かれていきその人の一生をどのようにして過ごしたかが分かる貴重な資料となっています。しかし資料そのものについて書物を書いたとされる人が複数にいると生誕や出自が曖昧になることが多かったうえに、創作した書物などによって生まれた地域や身分にも違いがあった場合もありました。

その出自が曖昧な一人に明智光秀の重臣だった明智秀満がいます。明智秀満は同時代に残されている資料が複数あるため確認されている限りで全部で三説あり、三宅氏と明智氏と遠山氏の説があります。また名前についても明智秀満より明智左馬之助の通称が有名である人物で、逸話も多く記録されている人物です。

今回はNHK大河ドラマでも活躍が期待されている明智秀満がどんな人物だったかを解説していきます。

明智秀満の基礎情報

出自記録が多くはっきりしない明智秀満

明智秀満の出自については、記録されている資料が明智軍記を始めとする書物が何点か現存していますがどれもはっきりとした明智秀満の誕生時期などは判明していません。生誕も1536年と明智軍記には記述されていますが、その他の書物には1536年以前となっているものや以降になっていたりするため生誕時期が定まっていませんが、ここでは明智軍記を通説としていきます。

明智秀満の一生

明智秀満の生涯を年表ごとにみていきましょう。

できごと

三宅と名乗っていた明智秀満

明智秀満の一生については、記録が現存していないこともあり今もなおはっきりとしていないことが多いです。当初の姓として明智の名を名乗っていたのではなく三宅弥平次と明智秀満が生きていた時代の書物に書かれています。

その他にの名も確認されていて、美濃国明知城主だった遠山景行の嫡男遠山景玄と同一人物の可能性があり明智の名を称する前までは遠山景玄として生きていたともいわれています。しかしながら遠山景玄は従軍していた武田氏と徳川氏との上村の合戦で亡くなったことになっていますが、上村の合戦のことが記されている書物を作成した人物による誤りだったとされています。

また遠山景行の妻は三宅氏だったと確認されており、姓を名乗った順としては遠山氏・三宅氏・明智氏となっていたと考えられています。

明智光秀と共に明智城を奪取

三宅弥平次と名乗っていたころには、明智家の家臣として仕えているようで明智光秀と共に美濃国主だった斎藤道三に従っていきます。斎藤道三は尾張国の織田家と同盟を交わしており、一代で築き上げた美濃国をいずれ織田家当主の織田信長に渡す予定でした。

織田信長に美濃国を渡すきっかけとなるのが正徳寺での会見で初めて両者が対面した際に、正装された織田軍隊に驚きいつか斎藤家は織田家に服属することになるだろうといったとされています。また斎藤道三の後継ぎだった斎藤義龍との関係が悪く、廃嫡を考えていき戦へと発展していきいくことになります。

斎藤道三と斎藤義龍による親子戦となる長良川の戦いでは、明智城で守備をしていていました。長良川で斎藤道三が討たれると斎藤義龍は家臣だった明智一族のいる明智城へと攻撃を仕掛けていき、明智家は約800兵で籠城していきましたが次第の押され始め明智光秀の父明智光安は明智家のことを明智光秀に託し明智城を脱出させていきます。この時に明智秀満も明智光秀の護衛として共に脱出していきました。

流浪の生活から織田家の下で明智姓を名乗る

明智城を脱出してからは、数年ほど流浪の生活を明智光秀らと送っていたようで武将としての働きは皆無だったようです。その後は、何らかの方法で越前国を統治していた朝倉義景に仕えていく明智光秀ですが明智城を共に脱出し行動していることから明智光秀と同様に朝倉義景の下で活動していたと考えられます。

1566年を超えたあたりで朝倉義景と足利将軍家との繋がりあり、明智光秀が使者として京を行き来していたと考えられ足利義昭に接近していきました。1566年には足利義昭による上洛命令を聞いた織田信長は将軍家と良好関係を築くべく当初は足利義昭と関係を構築していきます。

明智光秀と共にに朝倉義景の下を離れ足利義昭と織田信長の両名の家臣となっていました。明智光秀が政務活動をしているころに明智秀満がどのような行動をしていたかは不明ですが、本能寺の変が起きる直前に明智秀満と名乗っています。

明智秀満の人物像

明智秀満の性格や人物像をみていきます。

茶道にも心得た文化人

織田信長はこの時代に茶器や茶会を頻繁に開催していたようで、全国各地の文化人や面識を持ち始めていた南蛮人らと楽しんでいたとされています。茶会を開催するにも織田信長自らが場を用意するのではなく一部の重臣たちが来賓のおもてなしや茶会に必要なものを設置したりと大忙しだったことでしょう。

明智光秀も定期的に客人を招いて茶会を開催しており、天下三宗匠と呼ばれた津田宗及を2度ほどもてなした際に饗応役として食事を振る舞ったり茶を点てたり接待から客人の身の周りの世話までこなしていたとされています。

明智光秀から信頼されていた

1578年に明智光秀の長女と結婚しており、一家臣が主君の娘を娶ることはそれなりの働きがないと結婚することも叶わないでしょう。明智光秀が勧めた縁談だったと考えられるため明智光秀から相当期待されて人物でもあり信頼されていたことでしょう。

明智秀満の逸話

明智秀満が残したといわれる逸話について触れていきましょう。

本能寺の変を最初に同意した明智秀満

明智光秀が織田信長に四国征伐の応援をするべく、亀山城をを立つ時に坂本城に居た明智秀満に相談したとされています。明智秀満の他に藤田行政・溝尾茂朝・斎藤利三に謀反計画を打ち明けていきました。

明智秀満を除く三名は、謀反計画に反対していましたため一旦計画は流れてしまいます。しかし再度、明智光秀が明智秀満に相談すると自分以外に打ち明けてしまった以上は織田信長の耳にいずれ入ることになるだとうといい謀反計画を重臣たちを同意していきます。

武士に別の生き方を授ける

明智光秀が山崎の戦いで討ち取られてしまった後も、明智秀満が守る坂本城は籠城を続けていたものの落城寸前となっていました。坂本城の正門を打ち破られ、一番乗りしてきた入江長兵衛を知っていた明智秀満は自分がしてきたことを話し始めていきます。

自分は今まで、先鋒として戦でも最前線で戦い家族のために戦果を上げてきたが結果はこのような窮地追い込まれてしまったといいます。入江長兵衛も自分と同じように末路が待っているので武士を辞めて商人になれといい300両を手渡しし、明智氏との戦いを終えて直ぐに入江長兵衛は商人で財を為したとされています。

フィクションにおける明智秀満

現代における明智秀満をみてみましょう。

大河ドラマの明智秀満

大河ドラマにて明智光秀を主役とした麒麟がくるが放送されていますが、明智秀満も重臣として登場しています。演じているのは、間宮祥太朗さんで青年時代から登場しているため謎になっている前半生が現代の脚本によって描かれています。

家族を自身の手で下し明智家の命運とともに散った明智秀満

明智秀満についてもそうですが明智光秀についても出生に関する情報が少なく、前半生は何をしていたのか判明していないません。戦国時代の世でも勝利したものによって情報操作が行われていたこともあるので、明智光秀らの記録を燃やしてしまった可能性が高いでしょう。

記録が少ない割には逸話が残されていることを考えると、後世の人たちによって英雄化されていたことも考えることができます。また逸話にあるように家族思いでありながら主君の妻と自信の妻を自身の手で下し、自身も自害して果ててしまった悲しく虚しい最後をむかえていきました。