明石全登は謎多きキリシタン武将!その読み方は?明石ダンスとは一体?

明石全登は宇喜多秀家や豊臣秀頼などを主君として仕えた豊臣方と呼ばれる武将となります。明石全登は関ヶ原の戦いや大坂の陣など日本歴史上の節目となる出来事に名を刻んでいますが、その生涯の多くは謎に包まれ、実際は「全登」の呼び方さえも定かではありません。

この記事では明石全登の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。明石全登がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームやドラマにおける明石全登など、様々な視点から解説していきます。

明石全登の基本情報

明石全登(あかしてるずみ)は備前国(現在の岡山県あたり)出身で、戦国時代〜江戸時代前期にかけて生きた武将です。

明石全登は宇喜多直家・秀家に仕え、豊臣方の武将として関ヶ原の戦いに参戦しました。その後は一度浪人となりますが、戦国の終焉となる大阪の陣では「大坂五人衆」の一人として、再び豊臣方として参戦し歴史に名を残しました。

明石全登の人生

できごと

家督相続から宇喜多家の主力武将へ

明石全登は戦国史に名が残る関ヶ原の戦いや大坂の陣など大きな戦いで名を残していますが、詳しい生年や死没についての詳しい資料は残っておらず、謎に包まれた武将でもあります。

1597年頃には父の明石行雄から家督を相続し備前大俣城の城主として宇喜多秀家に仕えます。また豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、10万石を取る武将となっていきました。

1599年には宇喜多家のお家騒動(宇喜多騒動)が発生し、宇喜多家臣団は分断してしまいます。重臣4名が出奔するこの事態を明石全登は家宰としてまとめ上げ、宇喜多家の主力軍師として頭角を表していきました。

天下を分けた関ヶ原の戦いと浪人生活

豊臣秀吉が死去した後は、徐々に不穏な動きを見せる徳川家康と、前田利家やその他五大老を筆頭とした豊臣恩顧の大名による水面下での駆け引きが進んでいきました。そして1600年に徳川家康は豊臣政権下の五大老の一人であった上杉景勝が豊臣政権に対しての反逆を企てているとして上杉征伐(会津征伐)のために動きだします。この会津征伐が引き金となって対立派の一人である石田三成がついに挙兵し、東軍・西軍に別れた天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発することになります。

明石全登は主君の宇喜多秀家に従い石田側の西軍に与し出陣すると、関ヶ原の前哨戦となる伏見城の戦い、杭瀬川の戦いで勝利を収めて勢いに乗ります。本戦の関ヶ原の戦いでも宇喜多勢1万7千人のうちの8千人を率いて福島正則を相手に善戦しますが、小早川秀秋を中心とした西軍内での裏切りが相ついだ結果、西軍は敗走してしまいます。

明石全登は主君の宇喜多秀家を大坂城まで退却させるため殿(しんがり)を務めますが、奮戦むなしく戦後は宇喜多秀家が流刑、宇喜多家自体は改易となってしまい、明石全登は浪人の身になってしまいます。

浪人となった後は同じくキリシタンであった黒田如水や田中忠政の元で匿われたとも言われますが詳細な記録は残っておらず、ここで歴史の表舞台から一旦姿を消すことになります。

浪人からの復活、大阪の陣で大活躍

次に明石全登が史実に現れたのは、争いの世もいよいよ終わりを迎える1615年の「大坂の陣」です。

1614年には徳川方と豊臣方の衝突は避けられない状況となり、豊臣方は戦力を集めるため浪人を募集します。明石全登は息子である明石景行ら全国へ散り張っていた親族たちと数千に上るキリシタン兵を率いて、真田幸村や後藤基次ら大坂五人衆と呼ばれる一人として大坂城へ参陣することになります。

大坂冬の陣では籠城戦を取り、真田幸村などの奮闘もあって徳川方と一旦和睦へ持ち込みますが、そこで大坂城の外堀を埋められ籠城が出来ない状態とされていまい、夏の陣では城を出て戦わざる負えない状況へ追い込まれていきました。

そのような圧倒的不利な中で、明石全登は道明寺の戦いに参加します。この戦いで豊臣方は徳川方の伊達政宗らと交戦し、後藤基次などの戦死者を出しますが、明石全登らは決死の交戦で相手方の混乱を誘い出すなど奮闘を見せます。

その後の天王寺・岡山の戦いでは300名ばかりの決死隊を率い、真田幸村らと徳川家康本陣を狙いに突撃をかけます。明石軍は敵の背後に回り込み突撃する予定でしたが、先鋒真田隊の壊滅を知り、やむなく明石隊も退却することとなります。明石軍は敵包囲網の一角を見事に突破し退却に成功しますが、史実で終える明石全登の足跡はここまでとなり、それを最期に歴史上に再び姿を現すことはありませんでした。

この戦いによる明石全登の生死は定かではなく、戦死の記録がいくつか残りつつも、九州あるいは南蛮に逃げ延びたという言い伝えも残されています。

明石全登の人柄・人物像

明石全登の人柄や人物像について説明していきます。

宇喜多秀家や豊臣政権からの評価

1599年、明石全登が仕えていた宇喜多家の存続を揺るがす程のお家騒動が発生します。このお家騒動で今まで宇喜多家を支えていた重臣たちがほとんどいなくなる状況となってしまい、そこで白羽の矢が立てられたのが明石全登でした。明石全登は見事に宇喜多家をまとめる家宰の役を務め上げ、この活躍が豊臣政権にも認められて豊臣直臣に取り立てられるまでとなりました。10万石の俸禄も得るなど当時の大名クラスに匹敵される程評価されていたことが伺えます。

また、このお家騒動以降は宇喜多秀家の信頼もますます厚くなり、関ヶ原の戦いでは宇喜多勢の半分の兵を任され先鋒を務めるほど評価されていました。

敬虔なるキリシタン武将

1597年に豊臣秀吉の命令によって26名ものキリスト信者が長崎で磔にされるという悲しい事件が発生します。明石全登はその時に26名のキリスト教者を長崎まで護衛する役目を預かっており、この信者たちを最期の瞬間まで出来る限りの良い待遇で送り届けられるようにと最大限の警護を尽くし、そのことが遠いヨーロッパまで伝えられたと言われています。

また大阪の陣では数千にも上るキリシタンたちを率いて豊臣方として参戦しました。明石全登が豊臣方につくことは宇喜多家が豊臣方の大名だったため自然とも思える行動ですが、実際は当時の江戸幕府がキリスト教を全面的に禁止し排除する動きを打ち出していたからだとも言われています。信仰心の強いキリシタンであった明石全登にとっては、これだけでも豊臣方につく動機として十分な程でした。

明石全登の名言・エピソード

明石全登の名言・エピソードについて説明していきます。

「全登」の名前が読めない?

明石全登は生没年や空白の期間も多く謎が多い武将と言われていますが、実はこの「全登」という名前についても正しい読み方自体が判明しておらず、「ぜんとう」「てるずみ」「たけのり」「なりとよ」「いえのり」と読む説や、洗礼名の「じゅすと」と読む説など多数諸説があります。

他にも別名としては守重(もりしげ)や景盛(かげもり)などが伝わっていますが、この一番有名な「明石全登」という名の呼び方が分かっていないという、前代未聞の謎だらけな武将でもあります。

大坂の陣を生き延びた生存説

明石全登の最期が謎で包まれ、また生存説が強く世に出回っている理由としてキリスト教との強い関係性が挙げられています。それはキリスト教の教えでは「自殺は罪」とされている為、敬虔なキリシタンであった彼が自害したとは思えないという説です。

実際の例として、関ヶ原の戦いで西軍側の敗軍将として斬首された小西行長も熱狂的なキリシタンでありましたが、キリストの教えを守り自害をせずに逃亡を続け、捕縛されたのちも切腹を拒否したと言われています。明石全登の場合も戦場では結局遺体が見つかったかどうかが不明、なおかつ彼のキリスト信仰の強さから、実しやかに生存説が信憑性のある説として信じられる一因となっています。

フィクションにおける明石全登

フィクションにおける明石全登を解説していきます。

歴史ゲーム「決戦」で有名な「明石ダンス」とは?

歴史ゲーム「決戦」は関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した武将たちが登場し合戦を行うシミュレーションゲームです。

その「決戦」の戦闘シーンでは何人かの武将においては、自身の部隊が戦闘に突入する際に武勇を誇るムービーが流れてきます。大体の武将は自身の剣技や槍捌きなどの武勇を誇るムービーとなっているのですが、明石全登の場合はBGMがオーケストラに変わり、部隊全員を率いてダンスを披露するという内容になっており、非常にインパクトがあるということでファンの中では「明石ダンス」と呼ばれ話題になりました。

大河ドラマ「真田丸」における明石全登

ドラマにおける明石全登は、2016年から放送された真田幸村を題材とした大河ドラマ「真田丸」が記憶に新しく、俳優の小林顕作さんが演じられていました。

ドラマでの読み方は全登(てるずみ)とされており、熱狂的なキリシタン武将として描かれています。

明石全登はキリシタンの誇りを胸に、戦国の動乱を駆け抜けた熱き武将だった

明石全登はその生涯においては明らかになっていない点も多く、謎に包まれた人物です。その一方で、日本史上に名を残す関ヶ原の戦いや大坂の陣に登場し歴史に名を残す活躍を見せた武将でもありました。

明石全登は、戦国という乱世に生きながらも終生キリストの教えを大事にし、戦乱の日本を強い想いで変えようとし続けた信念の武将であったと言えるでしょう。