赤井直政は明智光秀のライバルで脇坂安治との逸話も残る猛将!その子孫は?

赤井直正は「丹波の赤鬼」の異名を持ちその勇猛さを大いに恐れられた武将です。度重なる戦を制して群雄割拠していた丹波国の覇権を掌握し、その後明智光秀を何度も苦しめた最大の宿敵でもあります。

この記事では赤井直正の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。赤井直正がどのような人物であったのか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームやドラマにおける赤井直正など、様々な視点から解説していきます。

赤井直正の基本情報

赤井直正(あかいなおまさ)は丹波国に生まれ、戦国時代から安土桃山時代に生きた武将です。

一度は織田信長に恭順の意を示したもののすぐに翻し、以降は死去するまで、織田信長の部下であった明智光秀らと丹波の覇権を巡って戦いを繰り広げました。

赤井直政の人生

できごと

外叔父を殺害した「悪右衛門」が、丹波を制圧する

1529年に赤井家の次男として誕生してすぐ、同族であり黒井城を本拠としていた荻野氏の養子となります。ところが25歳の時、当主であった外叔父の荻野秋清を殺害し、黒井城を奪略します。

叔父を殺害した理由は、一説では萩野秋清が家臣達の信頼を失っていたからだとも、赤井本家に対し謀反を起こそうとしたところを赤井直正が制止しようとしたからだとも言われていますが、真相は分かっていません。

いずれにせよ、この事件をきっかけに、自ら「悪右衛門」と名乗るようになります。

1557年に兄の赤井家清が戦死すると、その嫡男赤井忠家がわずか8歳で跡を継ぎます。赤井直正は幼い当主の後見人となり、赤井家の実権を握り、勢力を拡大していきます。

1565年に丹波国横山城主の塩見頼勝を破り、続いて丹波国八木城主で三好氏を後ろ盾にもつ内藤宗勝との間に「和久郷の決戦」と呼ばれる戦いが起こりました。赤井直正がこの戦いを制したことで、内藤氏・三好氏も丹波から手を引き、赤井氏が丹波の覇権を掌握することになりました。

織田信長との対立

1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、当主赤井忠家が織田信長に忠誠を誓ったため、赤井直正も従います。1570年には領土を安堵され、赤井家は織田信長の家臣団に取り込まれました。

しかし、織田信長と足利義昭の関係が悪化してくると、赤井直正も反織田氏の姿勢に転じ始めます。

1571年には、侵攻してきた山名祐豊を撃退しますが、山名祐豊が主君である織田信長に援軍を求めたことから、赤井直正と織田信長の対立が表面化します。1573年頃には、足利義昭から直接援助を求められたり、武田氏から織田信長包囲網に参加するよう求められており、この頃には完全に反織田信長の姿勢を示すようになりました。

明智光秀による丹波攻略

1573年に武田信玄が死去し織田信長包囲が崩れ始めると、次の標的は丹波へと移ってきました。

1575年、織田信長の命を受け、圧倒的兵力を誇る明智光秀の軍勢が丹波に攻めてきます。(第一次黒井城の戦い)

しかし、赤井直正は密かに丹波国南部を支配していた波多野氏と同盟を結び、南北から明智軍を挟み撃ちにします。波多野氏は織田信長に服従していたため、その裏切りに明智軍は戸惑い混乱します。さらに、ひるんだ明智軍に対し、追い討ちをかけるように弟・赤井幸家の軍勢も背後から襲いかかります。後世”赤井の呼び込み軍法”と呼ばれるこの作戦が功をなし、明智軍を敗退させました。

戦いの勇猛果敢な様子から、赤井直正は「丹波の赤鬼」と渾名され、その名を全国に知らしめました。

そして1577年、再び陣を立て直した明智光秀が攻めてきます。

今度は波多野氏の裏切りが無いよう、事前に波多野氏の居城を打ち果たしてから、1579年8月、黒井城へと攻め込んできました。(第二次黒井城の戦い)しかし、第一次黒井城の戦いとは打って変わり、あっけなく落城します。

なぜならば、1579年3月、第二次黒井城の戦い目前に赤井直正が首の病が元で亡くなってしまっていたのです。指揮官を失った赤井家には為す術がなく、当主赤井忠家も逃げてしまいます。ここに明智光秀・織田信長による丹波平定が成し遂げられました。

結局、赤井直正が事前に死んでしまったので、明智光秀が彼を倒すことは一度もできませんでした。しかし、この丹波平定は織田信長から高く評価され「天下の面目をほどこし候」と賞賛されました。

赤井直正の人柄・人物像

赤井直正の人柄や人物像について説明します。

『甲陽軍艦』における評価

甲斐国武田家の実績を記した『甲陽軍艦』において、赤井直正は「名高キ武士」として賞賛されています。同じく名将として長曾我部元親、徳川家康ら錚々たる名前が挙げられていますが、赤井直正はその筆頭に記されています。

丹波から遠く離れた甲斐においてもその勇猛さや指揮力の強さが高く評価されていたことがわかります。

赤井家への寛大な処置は赤井直正のおかげ?

第二次黒井城の戦いに敗北し逃げ出した赤井忠家ですが、その後意外にも許されて命を繋ぎ、後に豊臣秀吉の家臣して取り立てられます。また、赤井直正の長男赤井直義も許され、徳川十七将の一人藤堂高虎に仕えています。このように、その後も赤井家は存続していきます。

このような処置は、赤井家に味方した波多野秀治らが極刑に処されたことや、後に織田信長が他の敵将に下した処置と比べると、とても寛大です。実は、第一次黒井城の戦いの後、織田信長はある丹後国衆に対し「赤井直正を赦免することとした」という朱印状も出しています。

このことは、織田信長からも赤井直正が勇猛で有能な武将として、その戦いぶりを高く評価していたからであると言えます。

なお、第一次黒井城の戦いで活躍した赤井直正の弟・赤井幸家も生き残っており、その子孫が元ボクサーで俳優の赤井秀和さんです。

赤井直正の名言・エピソード

赤井直正の名言やエピソードについて解説します。

脇坂安治に与えたテンの皮

賤ヶ岳七本鎗の一人、脇坂安治がまだ20歳の若武者であった時、黒井城を攻める明智軍の使者として、堂々と単身で城に乗り込み赤井直正に降伏開城を勧めてきました。

赤井直正は、この勧めには乗らなかったものの、敵城に乗り込んできた脇坂安治の勇敢さに感心し、赤井家の家宝であったテンの皮で作った槍の鞘を送りました。脇坂安治も、敵であり年若である者にも敬意を払う赤井直正の行為に感銘を受け、このテンの皮を生涯家宝として大切にしました。

赤鬼も意外と信心深い?興禅寺の再興

兵庫県丹波市にある興禅寺の前身は、誓願寺というお寺でした。当時の誓願寺があった場所は他にもいくつかのお寺があり、黒井城の寺町を形成していました。しかし、赤井直正と内藤宗勝が戦った際に戦火で全焼してしまいます。

赤井直正は、これをそのままに放置することはせず、誓願寺の復興に努力し、本堂などを建て直します。また兵庫県の兵主神社には、愛用の兜を寄進しています。生涯を戦に費やした赤井直正ですが、その意外な信仰深さが伺えます。

この誓願寺は、1626年、かつて黒井城の下館があった場所に移築され、名前を「興禅寺」に改ました。そして復興に尽力した赤井直正に敬意を込めて、開基を赤井直正と定めました。

フィクションにおける赤井直正

フィクションにおける赤井直正を解説します。

信長の野望

赤井直正のステータスは、シリーズによっても異なりますが、統率84、武勇85、知略72、政治30です。

実際の赤井直正と同じく統率と武勇に優れているキャラクターとして描かれています。

ドラマにおける赤井直正

これまで赤井直正が目立って登場したドラマはありませんでしたが、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は明智光秀が主人公であるため、宿敵である赤井直正が登場するかもしれません。丹波市の黒井城跡地域活性化委員会も、赤井直正を積極的にPRしています。

赤井直正は負け知らずの勇猛な武将

赤井直正はその生涯を通して何度も戦勝を繰り返し、あの明智光秀を大いに苦しめた武将でした。

「丹波の赤鬼」という渾名に引けを取らない勇猛果敢さで、当時の武将達だけでなく後世の人々からも、その武勇を高く評価されています。赤井一族は最終的には敗退してしまいましたが、寛大な処置を受け、江戸時代まで脈々とその血が続いていきます。それは、赤井直正の高名がもたらしたものであると言えるでしょう。